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そこはかつてよりも更に閑散としていた。
人間どころか、動物や魔物の気配一つない。
街の入り口には無残に折られ打ち捨てられた立て看板が転がっていた。
『人体に有害なガスの発生を確認したので、街と鉱山への立ち入りを禁止する』
掠れた文字であったが、マルクト皇帝ピオニー・ウパラ・マルクト九世の名を読み取ることもできる。
皇帝の名を記した看板を叩き折ったあげくの不法侵入。街にいた人間はそこにいたというだけで犯罪者として捕まる理由がある。街から移動させるのに本人の了承は必要ないだろう。
「誰もいないみたいだな」
街の中を見渡しガイが呟く。ひとっ走り街の中を回ってきた方がいいだろうか、と。
「先遣隊が退去させたようですよ」
風で飛ばされないようにと、街の入り口付近の民家の壁に張り付けられていた自分宛のメッセージを見つけたジェイドが、それを一読して答える。
海路でアクゼリュスに向かったジョゼット率いる白光騎士団と、街道の使用許可の報せを受けて駆けつけたマルクト軍は、無事この地で合流できたようである。マルクト軍の指揮官をアスラン・フリングスが務める以上、両国の軍人の間に諍いが起こるという心配は必要ないだろう。
デオ峠で出会わなかったことから、先遣隊は海路でグランコクマに向かったものと考えられる。救助された身とは言え全員が犯罪者だ。ここに残った場合とどちらが幸せだったのでしょうねぇ、とジェイドは思案する。この地にいた人々が全員無事救助されたことを素直に喜ぶルークの手前口に出すことはしなかったけれど。
「我々のやることはなさそうですし、帰りましょうか?」
ジェイドの提案にルークは首を傾げた。アクゼリュスに来たのは住民―――と思っているのはルークとイオンぐらいで、他の者たちからしてみれば不法侵入した犯罪者でしかない―――の救助だけが目的だったわけではないはずだ。
「そうね。無事使命を果たしたことを国に報告する必要もあるでしょうし」
「そうだな(ですよ~)」
ティアに続き、アッシュ・ガイ・アニスも「さぁ帰ろう。とっとと帰ろう」とルークの背を押す。イオンはニコニコしているだけだ。ミュウは丸い目を更に丸くしていた。
驚いているのは自分とミュウだけという状況に少々疎外感を感じるルークだった。
正しい反応をしているのはルークだ。彼らの最終目的は世界を救うことにあった、はずだ。ただ何のために世界を救うのかという部分で、ルークとそれ以外の認識は大きく違っていた。そしてその隔たりにルークとミュウだけが気付いていないため、時々出てしまう周囲の本音に二人――― 一人と一匹だけが取り残されてしまうのである。
「アクゼリュスを放っておくのかよ?」
「無人の街を訪問しても意味がありません。どうしても、とおっしゃるのでしたらアクゼリュスから避難した住民たちを慰問してやってください」
いやいやいや、だから親善大使としてならそれでいいのだろうけれど、今回アクゼリュスに来た本当の目的はそうじゃないだろ、と思っているのはルークだけだろうか?
もちろんそんなことはない。ただ、わかっていても皆目を背けたいだけなのだ。
坑道の奥へ向かうことを先延ばしにしたいのか、それとも何か切欠の訪れを待っているのか。
「それでは皆さん、親善大使殿のご要望でもありますし、キムラスカに戻る前にセントビナーに寄って行きましょうか」
「へ? グランコクマじゃないのか?」
グランコクマに連行されたのは不法侵入の罪で逮捕した犯罪者だ。キムラスカの王族と会わせてよい相手ではない。
アクゼリュスの元住民は数年前に街を出てマルクト国内の様々な場所で新しい生活を送っている。アクゼリュスから最も近いということもありセントビナーには今も多くの移民が暮らしていた。数年前にアクゼリュスを出た人々を今慰問することにどんな意味があるかはわからないが、それでルーク・フォン・ファブレをアクゼリュス救援の親善大使に任命した国に対する義理が果たせるのであればそれでいい。
国王たちがルークをアクゼリュスに送り込んだ本当の理由なんて百も承知だ。しかし彼らが真実を隠しアクゼリュス救援のための親善大使という建前を貫き通すのであれば、それを利用するのも悪くはない。アクゼリュスの住民―――といっても不法占拠の犯罪者である―――の救助は完了している。ルーク・フォン・ファブレはアクゼリュスの元住民が多く住むセントビナーを慰問した後、帰国。これで道理は通るだろう。
そうなった時のキムラスカ国王やモースの顔が見てみたいものですねぇ~、とジェイドは思う。実際にそれを試す機会(チャンス)がないことも理解していたけれども。
「それにしても、遅いですね」
ヴァンたちがここで仕掛けてこないはずはないのだ。てぐすね引いて待っているというのに、中々現れないヴァン―――自ら来るとは思っていないが―――に痺れを切らし、半ば本気でアクゼリュスを出て行こうとした時だった。
「グランツ響長ですね? 自分はハイマンであります」
声を掛けてきたのは教団服を着た男だった。あまりよく覚えてはいなかったが、それはかつてと同じ男のような気がした。あの時は深く考えなかったけれど、今思えば彼はモースの部下ではなく、自分をアクゼリュス崩壊に巻き込みたくなかった兄の部下だったのだろう、とティアは思う。そしてその推測は多分正しいのだろう。
リグレットとラルゴの他にもまだヴァンに心酔するものがいるのだろうか。それとも騙されているだけなのだろうか。たぶん後者だろう。もしかしたら神託の盾兵ではなく金で雇われただけの者である可能性だってある。
男はティアには第七譜石らしき物を発見したので確認のため共に来て欲しいと言い、ルークたちには坑道の奥で住民らしき影を見かけたので確認しに行った方がいいのではないかと言った。
確かにティアが最初にモースから受けた命令は第七譜石の探索であった。しかし今現在モースが最も優先している事はアクゼリュス消滅預言の成就である。そのためにティアを親善大使一行に同行させたのだ。今ルークの傍を離れることをモースが望むはずはないだろう。もちろんティアにモースの命令を遵守しなければならない理由はないが。
さてどうしたものかしら、とティアは仲間たちに目を向ける。
「罠だな」
「罠にきまってますよ」
「罠でしょうねぇ」
アッシュの言葉にルークが大きく頷き、アニスの横ではイオンが相変わらずニコニコしている。今回イオンは譜石の確認をティアに命じたりはしなかった。まぁ当然である。ジェイドは呆れたふうに両手を広げて首を竦め、その後ろで腕組みをしたガイが小刻みに頷いていた。
男の存在は彼らの眼中にはない。
一刻も早くティアを安全な場所に連れて行きたいのだろうが、ルークたち―――正しくはルークとイオンとミュウを除く者たちであるが―――の雰囲気に口を挟む根性が男にはなかった。
どうしますか? とジェイドが仲間たちを見遣る。
どうするも何も行くしかないのだけれど―――そう考えているモノがこのパーティー内に何人いるだろうか? 坑道の奥でいくら待っても来ないとも知らずルークとイオンを待ち続けるヴァンを想像し、口許に笑みを浮かべたモノは「行かない」という選択肢を胸に秘めたモノたちである。誰とは明言しないが・・・・・・。
それでも男の言葉に従うことにしたのは、騙されたふりをして騙し返すのも一興であると思ったからだった。
「ちょっと待て」
坑道に向かおうとしたルークの腕を取りアッシュがその耳に何かを囁く。回線を使わずに耳打ちなのは、男の存在を配慮したからではなく、傍にいるということを実感したかったからだろう。そのまま引きずるようにルークを連れて近くの朽ちかけた民家に消える。
「あまり彼をお待たせしてはかわいそうですよ。お二人とも早くしてくださいね」
かわいそうなど欠片も思っていないくせによく言うものである。男を出汁にしてはいるが、アッシュに対する嫌がらせなのはバレバレだった。アッシュが何をしようとしているのか、ジェイドには察しが付いているようである。それ以外の者たちは何のためにアッシュがルークを連れて行ったのかわかっていなかった。一番理解できていないのは連れ攫われたルークだったかもしれないが。
二人が戻ってきたのは数分後だった。
その姿を見た瞬間、家の中で何をしていたのかジェイド以外にもわかったのだろう。ティアは二人を凝視しそれから慌てて目を逸らす。アニスは両手を口に当て、どうやら必死に笑いを堪えているようである。ガイは何故か破顔していた。一体何がそんなに嬉しいのだろう。ミュウは珍しくご主人様に飛び付いたりしなかった。イオンだけはいつも通りニコニコしている。ジェイドは消える前と同じニヤニヤとした笑みを浮かべたままだ。
(さっきと何もかわっていないではないか? 何が面白いのだろう)
ただ一人、ティアを呼びに来た男だけが彼らが笑う理由がわからないらしく、首を傾げてその様子を眺めていた。
今までのやり取りは何だったのだろうか?
考えたところで答えの出ない問題に、男は先程見たばかりの親善大使一行の奇妙な行動については忘れることにした。忘れずに報告していたら結果は変わっていたかもしれないと思うのは、すべてが終わってからの話である。人はそれを後の祭、もしくは後悔先に立たずと言う。
「案内してください」
散々待たされ、無理やり見せられた奇行に悩まされ、任務遂行は無理かなぁ~と頭を抱えていたところだっただけに、ティアの言葉に男はほっと胸を撫で下ろした。
男にとって何より恐ろしいものは己の上司だった。「無理でした」などと言おうものならどんな目に遭わされることか。
ほんの数ヶ月前までは二千人程いた同僚も今は数えられる程度しか残っていない。大半の者は導師奪還の任務に失敗し処分されたと聞いた。あの任務の時自分は実働部隊に加わっていなかった。それ故処分は免れた。自分は幸運だったのだ、と男は思い込んでいた。奪還任務の真相と己の不運を男が知るのはもう少し未来(さき)の話である。
男に与えられた任務はティア・グランツを街の外に停泊させてある陸艦に連れてくることと、キムラスカ王国がアクゼリュスに遣わせた親善大使、ルーク・フォン・ファブレと導師イオンを坑道の奥へ向かわせることだった。
何故そんな事を上司は命じたのだろうか?
ティア・グランツがヴァン・グランツの妹と知り、前者の理由はわかったが、わからないのは後者である。それでも任務に疑問を持つのは自分の仕事ではない。男は言われたことを実行するだけだった。
男はティアの顔もルークの顔も知らなかった。
しかし街の入り口にいる数名の男女を見て誰が誰であるかは直ぐにわかった。いや名前がわからない者も未だいるがそれはさして重要なことではなかった。
ティア・グランツ―――ヴァン謡将の妹というから女性であることを疑う必要はない。一行の中に女は二人だった。マロンペーストの髪は謡将の髪や髭と同じ色だ。彼女が妹であると思って差し支えないだろう。
それに、もう一人の少女は服装から導師守護役(フォンマスターガーディアン)であることが窺える。
ルーク・フォン・ファブレ―――赤い髪に緑の瞳はキムラスカ王族の特徴である。その稀有な特徴を有した青年は一人しかいなかった。いや一人髪と瞳の色を確認できない人物がいたがその男が着ている服は教団の詠師服である。神託の盾(オラクル)兵であると考えるのが妥当だろう。よってその人物は対象から除外される。
導師イオン―――彼に関しては顔を知っているのだから間違えようがなかった。
残りはマルクト軍の青い軍服を着た男と、金髪の青年。何者であるのかまったくわからないのは金髪の青年だけであったが、目的の人物ではないということははっきりしているので、男にとっては青年の正体などどうでもよいことだった。
「一人で大丈夫ですか?」
導師が心配そうに声を掛ける。
「直ぐに追いつきます。先に行っていてください」
ティアは問題ないと笑って見せるが、導師の表情は変わらなかった。
ティアが心配で街の入り口から動こうとしない導師に痺れを切らしたのか、それとも別の理由があるのか赤い髪の青年が「アッシュ」と教団服の男に声を掛ける。その名前には聞き覚えがあった。特務師団師団長・鮮血のアッシュ。会ったことはなかったが噂ぐらいは聞いている。何故ここにと思ったが、同時に彼が導師付きであったことを思い出す。
仮面の男は大きく頷くとティアの傍に寄った。一人であることが心配ならば、誰かを付ければよい。彼はそう考えたのだろう。
導師付きが導師以外の言葉に従うことに導師は何も言わなかった。親善大使一行に同行した時点で導師といえども大使の決定に従う立場となる。部下の一人や二人貸し出すこともやむをえないというわけだ。もちろんティアの身を心配する導師にその提案は渡りに船だったということもあるのだろう。
そんなふうに男は考えた。実際はもっと複雑な事情や人間関係が関与しているのだが、もちろん男がそれに気付くはずがない。そこまで勘繰る必要も感じていなかった。
ティア・グランツを連れて来いと言われた。ルーク・フォン・ファブレと導師を坑道に向かわせろと言われた。それ以外の同行者の動向についての指示は受けていない。連れて来るなと言われていないのだから連れて行っても構わないだろう。
男に仮面の男の同行を拒否する理由はなかった。上司に言われた三人がおとなしく従ってくれるのであればそれでよかったのだ。
タルタロスの船室の一つで、リグレットはティアが来るのを待っていた。
第七譜石という餌でティアは釣れるだろうか? それは逆に罠だと言っているようなものではないだろうか? しかし罠だと気付けばティアはあえて嵌ってみようとするのではないだろうか? どちらにしても彼女はもう直ぐここにやってくる。リグレットは半ば確信していた。そしてその確信はあまり時を置かずに現実となる。たった一つの、しかし大きすぎる誤算と共に。
「ここに譜石が?」
訝しげなティアの声が鋼鉄の壁に反響する。
当然だろう。彼女はタルタロスがマルクトの陸艦であることも、その船をリグレットたちが奪って逃げたことも知っているのだ。
案内された先がタルタロスであるとわかった瞬間、導師たちの元に戻ってもおかしくはない―――その場合は力尽くでも連れて来るように命じてあった。
ティアがそうしなかったのは、彼女にとって預言の成就よりも兄の真意を知ることの方が重要であるからだろうか。
それがティアと対面する場所にタルタロスを選んだ理由の一つだった。ここに自分かあるいはヴァン本人がいると思えば、罠だとわかっていてもティアはやってくる。彼女はそういう娘だった。
「よく来たな。ティア」
リグレットの視線はティアよりもその後ろに控えたフードと仮面の男の方に釘付けとなった。何故ここにという思いと、理由などどうでもいい運命は自分達に味方しているようだという思い。彼女は迷わず後者を選んだ。それが激しく勘違いであると気付けるだけの冷静さを持ち合わせてはいなかったのだ。
「アッシュも一緒とは、好都合だな」
ヴァンはアッシュを計画実現のために失えない駒だと言っていた。身代わりのレプリカを作ったのも、アッシュの機嫌を取るためにある程度の自由を許していたのも、そのためだった。「少々好きにさせすぎたようだがな」とあのヴァンでさえアッシュの扱いには手を焼いていた。それでもそれを言った彼は笑っていた。アッシュが知ればその余裕はどこから来るのだ? と馬鹿にしただろう。しかしリグレットは余裕の表情を浮かべるヴァンに器の大きな男だと更に惚れ直したのだ。恋は盲目とはよく言ったものである。
「リグレット、し・・・ヴァンは何をしようとしているんだ? 世界を救うのではなかったのか」
アッシュには潔癖な所がある、とヴァンは言っていた。だから彼には計画の全貌を教えないのだ、と。アッシュはヴァンの理想に共感したとしてもその過程で犠牲となる者が出るとわかれば協力はしないだろう。
オリジナルの人間と大地の消滅をもって世界は救われる。
ヴァンの言葉に感銘を受けたリグレットであったが、それをそのまま伝えればアッシュが反発することを理解できる程度にアッシュをわかってもいた。あるいはリグレット自身の考えではなく、ヴァンから厳命されていたのかもしれなかったが。
計画にアッシュの力はなくてはならないものだ。今はまだすべてを伝えるべき時ではない。
口を噤むリグレットに痺れを切らしたのはティアだった。
「教官。私は貴方と共に行くために来たのではありません。貴方の真意を確かめるために来たのです」
「それは私の台詞だ。おまえはこの地に詠まれた預言を知っているのだろう。預言遵守はユリアシティの住人の使命だったな。おまえはそんなくだらない使命のためにあのレプリカと心中するつもりか? 閣下はそれを許しはしないだろう。ティア、私たちと共に来なさい」
「お断りします。兄の理想は、ユリアシティの存在と同じぐらいくだらないことだわ」
そこに兄を慕う妹はいなかった。侮蔑と悲しみそして憐れみに満ちた空色(セレストブルー)の瞳。何もかも見透かすかのような晴天の空。
飲まれる、と思った。飲み込まれる、と。
リグレットには十も年下の少女の瞳に怯える自分を認めることはできなかった。自然と口調が荒くなる。それこそが怯えていることを如実に現しているとも気付かずに。
「閣下の何を知っているというのだ」
「少なくとも貴方よりは。兄は憎しみに捕らわれ狂気に酔いしれているだけの愚か者だわ。素直に復讐だと認める潔さもない」
「復讐ではない。閣下は真に世界のことを思っておられるのだ」
リグレットは信じていた。復讐心―――それとも恋心だろうか―――がリグレットの目を曇らせる。真実が見えていないということに気付けぬほど彼女はヴァンを信じ込んでいた。
真実はティアの瞳の中にある。見たくないという思いと見なければならないという思い。自分から逸らすこともできず、沈黙が続く。
その静寂を破ったのは、教団支給のブーツが金属製の床を踏み鳴らす音だった。
「ティア」
男の右手がティアの剥き出しの肩に触れる。名前を呼ばれ、ティアの視線がリグレットから逸らされた。
リグレットはそっと詰めていた息を吐く。
(緊張していたとでもいうのか? この私が、こんな小娘に・・・・・・)
逸らされた視線が再びリグレットに戻って来ることはなかった。閉ざされた瞼。唇が歌を紡ぐ。
「譜歌だと。馬鹿な・・・」
いつか聞いた旋律。抗い難い眠気がリグレットを襲う。
第七音素の枯渇した世界で無力と化したはずの音律士(クルーナー)。しかしティアの歌声にはまだ世界に第七音素が満ちていたころの音律士たちか、あるいはそれ以上の力があった。
何故、と思う。しかしその答えを見つけるより先にリグレットは深い眠りに落ちていた。
リグレットが床に倒れこむ音を合図にティアの歌も終わりを迎える。
「わかってもらえるとは思っていなかったけど・・・・・・」
それでも悔しいのだろう。せめて夢の中ぐらい幸福であって欲しいと思いながら、ティアは倒れた拍子に乱れてしまったリグレットの髪を梳く。
「急ぎましょう。みんなが待っているわ」
立ち上がったティアはいつもの彼女だった。
ティアたちはリグレットと案内役の兵士から武器を取り上げ、タルタロスの牢に収容する。「また逃げられたらどうするの?」
今回ラルゴはいない。しかし丸腰の女一人とはいえリグレットは六神将の一人。今度も逃げられる可能性は充分にある。
「ジェイドからいいモノを預かってきたんだ」
その手には小さな箱が握られていた。タルタロス襲撃時にラルゴから奪った封印術(アンチフォンスロット)である。
譜銃を取り上げ、それ以外の護身用の懐剣などもティアが身体検査をして没収し、封印術をかけ、牢に入れたリグレットに、ティアはナイトメアを念入りに重ね掛けした。これだけの譜歌を聞かせておけばアクゼリュスの件の方が付くまで目覚めるとは思えなかったが、さらにティアは、ジェイドから教わったタルタロスの生命維持に必要な機能以外のすべてを停止するためのコードを打ち込んだ。これでタルタロスは動かすことどころか昇降口(ハッチ)一つ開けることさえできなくなる。アリエッタがリグレットたちと敵対する今、魔物に外壁を引き裂かせるという強硬手段に訴えることもできない。リグレットたちがタルタロスを自力で脱出することはほぼ百パーセント不可能だった。
「前の時はなんで使わなかったのかしら?」
封印術が発動する閃光を見ながらティアが首を傾げる。
その答えは合流後ジェイドの口から明らかになることだろう。
【この話内での特殊設定】
譜歌は第七音素がない世界では威力を発揮しない。(ホーリーソングやリザレクションで回復可能という状況回避のため。第七音素が枯渇した今の世界ではグミなど以外での回復が不可能ってことになっております。今後の展開にたぶん必要なので)
ルーク・アッシュ・ローレライは自らの意志で第七音素を分け与えることが可能。ただし身体の一部が接触している必要がある。
ティアが譜歌を発動できたのはそういう理由です。リグレットが知ることは一生ないと思うけれど。
【封印術(アンチフォンスロット)について】
タルタロス襲撃時に使用しなかったのは、一つしかなかったからです。一人が無事なら逃げ出すことは可能なので勿体無いから使用しなかったようです。今回はリグレットのみ(案内役の兵士は数に入っていません)だったので使用したようです。ラルゴもいた場合はどうするつもりだったのでしょう。
ラルゴはリグレットに「ティアの説得は私に任せてほしい」と言われ同席しなかったことを後悔していた。それと同時に安堵してもいた。
物陰からこっそり窺ったリグレットたちのやり取りは結局物別れに終わった。
そして聞こえてくる美しい旋律。抗い難い眠気。
このままこの場にいては共倒れである。
幸い術者の意識はリグレットに向いていて、今はまだ余剰のエネルギーがラルゴに影響を与えているに過ぎない。今ならこの譜歌から逃れることも可能だろう。
噛み締めた唇から鉄の味が口腔内に広がる。
しかしこの程度の痛みでは眠気を完全に振り払うことはできない。
ラルゴは転げ落ちるようにタルタロスから脱出すると、岩場の陰に隠れた。譜歌の影響がなくなったらリグレットを救出しに行くつもりだった。
ティアたちが出て行ったのを見届けたラルゴはタルタロスに戻ろうとしたが、昇降口(ハッチ)にはロックが掛かっていてどうあっても開きそうにない。
「仕方がない。リグレットは後回しだ」
ラルゴはヴァンと合流するために坑道へと走り出すのだった。
「気心の知れた者の方がルークもやりやすいでしょう」
シュザンヌのこの一声でそれは決定事項となった。それは消滅すると思っている場所に貴重な戦力を割きたくないという国王の思惑とも一致していたので、反対されることはなかったのだ。女性のみで構成された今の白光騎士団の実力が国内で一・二を争うものであると知る者は国王とその周囲にはいなかった。ファブレ家の当主がシュザンヌに替わってから戦争は起きていないので、彼女たちが屋敷の外で活躍する機会は皆無だったのだからそれも仕方のないことだろう。
救援が目的である以上医療関係者を同行させることは必須である。治癒士が無力となってから一躍脚光を浴びるようになった医師や薬師は一般からボランティアを募った。彼らが実は医師や薬師のふりをした協力者であると気付ける者はまずいないだろう。ちなみにボランティアを称する彼らの正体は暗闇の夢である。表の顔はサーカス一味。実体は被験者(オリジナル)イオンの手足。その主な任務は諜報活動にある。変装などお手の物だ。
「あれって、イオンだよな」
そこに昨夜ヴァンによって誘拐されたはずの導師イオンが混ざっていることは公然の秘密だった。
ルークはまず救援部隊を二つに別けた。親善大使としての初仕事である。
救援部隊のアクゼリュス行きを阻止するために海上やらバチカルの入り口やらを見張る六神将がいる、なんてことはないので全員海路でも問題ないように思える。
対外的な理由にはヴァンたちの存在が大いに役立ってくれた。
和平の成立を阻止したい―――秘預言を知る者は心の中でこっそりと「和平」を「預言」に変換していた―――ヴァンは、ルークのアクゼリュス行きを邪魔しようとするだろう。救援部隊が一つではルークの居場所を彼らに教えているようなものである、と。
「でしたら、囮の部隊にはわたくしが・・・・・・」
「陛下にダメだって言われてんだろ」
諦めの悪いナタリア、ではない。ナタリアも今回自分が立つべき舞台がバチカルであることは充分承知している。これはナタリアのアクゼリュス行きを国王が反対していたことを民衆に知らしめるためのパフォーマンスだった。本当はインゴベルト本人とこのやり取りをしているところを見せたかったのだが、救援部隊の見送りに来たのがナタリアのみでは仕方がない。王の言葉を伝聞という形で見送りに集まった人々に教える。ナタリアとルークの会話は、アクゼリュス崩壊の報せやルーク・フォン・ファブレが行方不明であるという情報がバチカルにもたらされた時、王はこうなることを知っていたのではないかという疑惑を国民に抱かせるための布石となるだろう。
ジョゼット率いる白光騎士団は海路で、ルークたちと暗闇の夢は陸路でアクゼリュスに向かうことになった。もちろんどちらに親善大使が同行しているかなど公にされるはずがない。白光騎士団が厳重に警備する一団と、ほとんど一般市民のボランティアで構成された一団。何も知らぬ者が見たらどちらにルーク・フォン・ファブレが同行していると思うだろうか。つまり囮は海路組ということになる。
しかし真の囮は陸路組だった。
ルーク・フォン・ファブレが陸路でアクゼリュスに向かったという情報は、隠しているふりをしながら巧みに漏洩させた。もちろんモースが導師不在をダアトに隠すため吐いた嘘―――それが嘘だと思っているのはモースだけで実は真実である―――「導師は親善大使一行に同行した」という情報も、である。
アクゼリュス崩壊前にセフィロトに細工を施したいヴァンは、今頃必死になって導師を探していることだろう。
そしてもう一人、ヴァンが探している人物がいる。
オリジナルの人間と大地の消滅を望みながらも妹だけは例外だった男は、ティアのアクゼリュス行きを阻止しようとするはずである。預言の監視者であるティアは、鉱山の街消滅の預言を現実とするためにアクゼリュスにルーク・フォン・ファブレを導く使命を負っている、とヴァンは思い込んでいるはずだ。
ルーク・フォン・ファブレのいる所に目的の人物がいる。ヴァンがルークたちを追ってくる可能性は十分あった。
ルークたち―――実際に計画したのはジェイドであり、実行したのは漆黒の翼である―――はヴァンたちが陸路組に狙いを絞るように巧みに情報を操作していた。ヴァンたちの目を海路でアクゼリュスに向かった白光騎士団や、アクゼリュスという土地から逸らすことが真の目的だったのだ。つまりは崩壊までの時間稼ぎである。
「さあさあ、皆さん。そろそろ我々も出発しますよ。あんまりのんびりし過ぎて自然崩壊なんてことになったら目もあてられませんからね」
アクゼリュス崩壊は避けられない道なのだろうか?
時が近づくにつれルークの表情に陰りが生じることが多くなったのは気のせいではないだろう。
今回の計画では人命を犠牲にするつもりはない。アクゼリュスの住民はすべて避難済みだったし、ルークたちが時間稼ぎをしている間に、勝手に住み着いた人間たちを白光騎士団やマルクトが派遣した救援部隊が退去させることになっている。住民たちがアクゼリュスが崩壊するという話を信じずそこに残ることを望んだとしても、密入国や盗掘の罪で逮捕してしまえばいいだけの話だ。
「崩壊させなきゃダメなのかな」
誰に聞かせるともなしに呟かれた言葉。あるいは音にはなっていなかったのかもしれない。そんな小さな呟きであったとしてもアッシュにだけははっきりと聞こえていた。
アッシュは何も言わない。ただくしゃりとルークの頭を掻き混ぜただけだった。
こういう時容赦がないのはジェイドだ。すべては推測に過ぎないと前置きをして彼は自説を語った。
「パッセージリングの稼動寿命が約二千年であることをユリアは知っていたと思います。だからホド島やアクゼリュス消滅の預言を残したのでしょう。限界に近づいたセフィロトツリーを人為的に破壊することで、他のまだ使用できる、といっても数年から数十年程度だと思いますが、セフィロトツリーが連動して崩壊する危険を排除しようとしたのではないでしょうか。マルクトがキムラスカとの戦争に負けるとされたのもマルクト領にあるパッセージリングの寿命の方が短かったからだと思われます。貴方が超振動を使わなかったとしてもアクゼリュスは消滅したでしょうね。いえ、もしかしたら他のセフィロトツリーを巻き込んでいた可能性もあります」
前回のアクゼリュス消滅を気に病む必要はないと言いたいのかもしれないが、あまり慰めにはなってはいないようである。
「それに全セフィロトを一括操作するためにはアルバート式封咒を解いておく必要がありますしね」
外郭大地降下作戦のために必要なことだったと言われても、ルークは仕方がなかったのだと割り切ることはできなかった。それどころか今回もアクゼリュス崩壊は避けることができないと知り、落ち込む一方である。
そんなルークの様子に気付いているのかいないのか、いやジェイドのことだ気付いていないということはないだろう。それでもジェイドは「ただ」と常と変わらぬ口調で淡々と告げた。
「パッセージリングを破壊せずともアルバート式封咒を解く方法がないか、それとアクゼリュスを崩壊させずに魔界(クリフォト)に降ろすことができないかは検討する余地があるとは思います。すべては実際にアクゼリュスのパッセージリングとセフィロトツリーを見てみないことには始まりませんが」
この世の終わりとばかりに落ち込んでいたルークの顔に笑みが戻る。最初の落ち込みが酷かっただけにその変化は劇的だった。
前置きが長すぎるわ、とか。そんなにもったいぶらなくてもいいの、とか。前半いらねぇだろうが、後半だけで充分じゃねぇか、とか。そういう感想を抱くのが普通だ。
ルークのこの表情の変化が見たかったからじゃないのか、とうっかり思ってしまったガイは同類である。
そんなことを考えていたことがアッシュにバレて、ジェイドにやり返せない分も上乗せされてガイが追い掛け回されるのは、バチカルを出てからの話である。いかにアッシュが短気で沸点が低かろうともバチカルの街中で追いかけないだけの分別はあったようだった。
廃工場からこっそり出て行く必要もなければ、ザオ遺跡に寄り道をする理由もない。ルークたち陸路組の道中も今のところ問題なく進んでいた。
ルークは馬車の中だ。王族を乗せるに相応しい豪奢な物というわけにはいかなかったが、それは簡素な外観に反し乗り心地のよいものだった。シュザンヌの心遣いであると知っては、出発直前まで徒歩の旅を希望していたルークも承知せざるを得ない。アッシュが当然のように馬車に乗り込むのは、自身もまたここにいることをヴァンから隠したかったからか、それとも壁一枚でも己とルークを隔てる物があるという状況が我慢できないからか。後者であるような気がしてならないのは、外を歩くことを余儀なくされた者たちの共通の見解だった。
アニスはここにはいないことになっているイオンをルークと一緒に馬車に押し込める。「アニスも一緒に」とイオンは誘うがアニスは非常に残念そうな顔で辞退した。
バチカルから充分離れると、共にバチカルを出発した医療従事者たちは変装を解いて暗闇の夢に戻り、諜報活動と情報操作という本来の役目を果たすべく各地に散ってく。
こうなると陸路組はますますアクゼリュス救援部隊には見えなくなった。
仰々しい護衛を配しないことで「ここに親善大使はいない」ということをアピールしつつ、その一方でティアとアニスが素顔を曝して馬車を護衛することで、二人を知る者にルークとイオンがここにいるということを知らしめる。そういう作戦だった。つまりヴァンたちにだけわかるようにという配慮だ。その不自然さに気付くか気付かないかが勝敗の分かれ目だろう。いやたとえ気付いていたとしての、彼らに勝機がないことに変わりはないのかもしれない。
罠であるとわかっていても食いつきたくなるような魅力的な餌をチラつかせながら、一行はアクゼリュスへと向かう。
馬車を挟んで左右にティアとアニス。後ろにガイ。御者台にはジェイドが着いた。
ルークの護衛兼世話役として同行したガイが馬車に乗れないのは当然だったが、マルクト皇帝の名代であるジェイドが馭者を務めるのは本人が望んだからである。
「馬に蹴られたくはありませんから」
ジェイドの鋼鉄ザイル並みの神経も、二つの聖なる焔に温められた馬車の中では融け出すらしい。身体は弱くてもイオンの神経は鋼鉄ザイル以上の強度であるということだろうか。
ルークたちは何事もなくデオ峠の麓に到着した。砂漠越えの最中にヴァンたちの襲撃があるかもしれないと身構えていただけに拍子抜けである。
ザオ遺跡のダアト式封咒の解呪をヴァンは諦めたのだろうか?
「シュレーの丘の解呪に失敗したことで、計画を変更したのかもしれません」
シュレーの丘とザオ遺跡のパッセージリングに預言にはない命令を書き込み、本来アクゼリュス消滅のみで済むはずだった崩落にルグニカ平野の大部分とザオ砂漠を巻き込んだ。それが預言に支配された人間と大地の消滅を望んだヴァンの計画の第一歩だったはずだ。
彼が自分の計画を諦めたとは思えない。
だとすると。
「兄はアルバート式封咒の解呪する方法を知っているのではないでしょうか?」
「可能性はあります」
ヴァンはアルバート流剣術の使い手である。剣術と共に解呪方法が伝わっていたとしたら。
ヴァンの弟子でありアルバート流剣術を使う二人に目を向ければ、同じ動作で首を横に振った。自分たちは知らない、と。
超振動でパッセージリングを破壊する前にアルバート式封咒を解呪し、そこから各地のセフィロトに一斉崩壊を指示することができるとしたら。
「かつてよりも酷いことになるかもしれませんねぇ」
笑っている場合ではないだろう、と突っ込むモノはいない。
ヴァンが解呪方法を知っていたとしても、一斉操作などさせなければいいだけのことだ。
ジェイドにはヴァンを出し抜ける自信があった。そしてそれは仲間たちも同じだった。
それよりもパッセージリングを破壊しなくてもアルバート式封咒を解くことができたらいいと、ジェイドは思う。それが世界を救うために必要なことだったとしても、ルークに辛い思いはさせたくなかったから。そんなジェイドの思いに気付くことができたのはルークを除く全員である。それは皆がジェイドと同じ思いを抱いていたからに他ならなかった。
デオ峠の手前で、ルークたちは馬車から降りることになった。馬たちの手綱を解いて平野に放す。
「ありがとうですの~」
ミュウにこの場所からなるべく離れることを通訳させたが、果たしてどこまで伝わっているだろうか。
「動物には天災を予知する能力があると言われていますから、大丈夫だと思いますよ」
ここから先は細く険しい峠道だ。王族や導師であったとしても歩かざるを得ない。
「イオン様はトクナガに乗ってください」
「ありがとうございます。アニス」
今のアニスは導師守護役として相応しい気遣いができるようになっていた。そしてイオンにも自分の体力のなさを自覚し無理をしないだけの分別があった。
教官・・・・・・リグレットはここで待ち構えているのだろうか、と峠を見上げながらティアは思う。
広い砂漠で一台の馬車を探すよりも、他のルートの選びようのない一本道で待ち伏せた方が効率がいいのは確かだ。
「いると思いますよ。油断しないで行きましょう」
峠越えに臨むにあたり一番仕度に手間取っているのはアッシュだった。
今はまだルークたちがアッシュの正体を知っていることを、ヴァンたちに知られるわけにはいかないのだ。
共にいることはイオンの護衛という建前があるから問題ないだろう。
フードで髪を隠し、仮面で顔を隠す。ルークの隣を歩きたいという思いを押し殺し、トクナガに乗るイオンの前を行く。
細い山道では一列縦隊で進むことを余儀なくされた。先頭はガイ、その次にアッシュ、トクナガに乗ったイオンとアニス、ルーク、ティア、殿(しんがり)がジェイドである。
その人影に最初に気付いたのはガイだった。
ここで接触してくるだろうと予想していた場所と寸分違わぬ場所だったので驚きはない。
「アニスはイオン様を・・・・・・」
人目のない場所だったので、ルークに対して王族だからという気遣いはない。アッシュは不満そうであったが、リグレットの手前ルークを庇うような行動は控えなければならない。それが一番難しいのではないか、とアッシュをよく知るモノたちは思う。
「止まれ!」
銃声が峠に響いた。
もう止まっているし戦闘態勢なんだけど、と少々リグレットが憐れになってくる。
問答無用でやってしまおうかと思うが、残念ながら遠距離攻撃を得意とするナタリアは不在だった。
これぐらいの高さなら飛べるだろうか、とガイが思う。ジェイドは譜術の詠唱に入った。後は発動させるだけというところで待機中である。直ぐにでも突っ込んでいきそうなアッシュは、トクナガに守られたイオンがこっそり服の裾を掴むことでその行動を制止していた。そうでもしなければアッシュは止まらないだろう。
リグレットにも言いたいことはあるだろう。聞いてやらなければかわいそうではないか。
そんな同情たっぷりな視線を向けられていることに果たして彼女は気付いているだろうか。
「ティア。何故そんな奴らといつまでも行動を共にしている」
「教官・・・・・・いえ、リグレット。貴方こそ教団を、導師を裏切って何をしようとしているのですか?」
「人間の、意志と自由を勝ち取るためだ」
リグレットはヴァンの最終目的を知らないのだろうか? 死後に得た自由にどんな意味があると言うのだろう。それとも預言に捕らわれた人間には死を、そうではない人間には生きる権利を与えようとでも言うつもりだろうか。神にでもなったつもりか? いやヴァンはレプリカ世界の神になろうとしていた。なんて愚かで傲慢なのだろう。人間はどう足掻こうとも人間以外の何者にもなれないというのに。
「私は私の意志で行動しているわ。兄の狂気に捕らわれた貴方に自由を語る資格があるとは思えません」
「閣下に協力することは私の意志だ」
「その理屈が通るというのでしたら、預言に従うことを選んだのもまた人間(ひと)の意志、ということになるのではありませんか?」
「と、とにかく・・・・・・ティア、私たちとともに来なさい」
どもるリグレットに、誤魔化したな(ましたね)、とルークたちが思うのは当然だった。女性相手に口でも勝てるジェイドは流石である。
「リグレット、ヴァンは何をしようとしているんだ」
行く行かないで揉めている師弟の間に割り込んだのはアッシュだった。
ヴァンがやろうとしていることなど先刻承知している。それをあえて尋ねたのはリグレットがどこまでわかっていてヴァンに協力しているのかを確認するためだった。
「アッシュ。まさかおまえがその出来損ないと一緒にいるとはな」
髪と顔を隠していてもその声でそれがアッシュであると気付いたのだろう。リグレットの顔色が変わった。驚きと呆れがない交ぜになっている。
出来損ない、とリグレットがその一言を発した瞬間、アッシュの身に纏う雰囲気が変わった。幸い仮面で隠されて素顔を曝すことは免れたが、きっと仮面の下では般若のような形相でリグレットを睨みつけていることだろう。
まずい、とルークは思う。アッシュを止めなければ。
ルークを馬鹿にする発言にキレてリグレットに攻撃を仕掛けるのがアッシュであってはならないのだ。今はまだアッシュが己のレプリカに好意を抱いていることをヴァンに知られるわけにはいかない。
ルークは回線でアッシュを止めようとしたが、怒りに我を忘れたアッシュには届かなかった。
アッシュの右手が剣の柄に掛かる。
「インディグネイション!」
強烈な雷撃がリグレットを襲った。アッシュの我慢が限界にきていることに気付いたジェイドが逸早く譜術を発動させることで、アッシュの行動を誤魔化す。
それを皮切りにガイが崖を駆け上る。
「初っ端から秘奥義かよ。相変わらず旦那は容赦がないねぇ~」
口調は呆れているふうであるが、ルークを出来損ない呼ばわりされて怒っているのはガイも同様である。
ジェイドとティアは譜術の詠唱に入り、イオンの護衛であるはずのアニスまでもが巨大化させたトクナガに乗って崖をよじ登っていく。
皆が皆リグレットの答えをまだ聞いていないとかそんなことはどうでもよくなっていた。
ヴァンに騙されているとかいないとか、そんなことは関係ない。今の一言でリグレットの罪は死罪相当。それがルークを除く全員の判決だった。
「アッシュ」
参戦しようとしたアッシュはルークが止めた。
「大丈夫だから」
剣の柄を握る指を一本一本解いていく。
四人の一斉攻撃に防戦一方のリグレットはこちらの様子を気にかける余裕はないだろう。
「出来損ないなんかじゃないって、アッシュは思ってくれているんだろ」
「当然だ」
我慢する必要がないと思ったアッシュはルークがいかに素晴らしいかを語り続け、その言葉の一つ一つにルークは真っ赤になって照れながらも嬉しそうな笑みを浮かべていた。
一人蚊帳の外のイオンはその様子を微笑ましげに見つめるだけである。
この状況を制止できる人間は現在戦闘中で手が離せないはずだ。時と場を弁えないアッシュだったが至福の時間はそう長くは続かなかった。
「私たちだけに戦わせておいて、何イチャイチャしているんですか、貴方たちは」
いつの間にか戦闘は終了していたようである。リグレットはほうほうの態で逃げていったらしい。
「すごかったですよ」
崖の上の攻防の一部始終を見ていたイオンが感嘆の声をあげる。見逃したのは勿体無かっただろうかと残念がるルークに、ジェイドの嫌味は通じそうになかった。
「それでは先を急ぎましょうか」
もうヴァンたちが襲ってくることはないだろうと思ったアッシュとルークは、その後の道中は誰にはばかることなくべったりだっし、嫌味を言うのが如何に無駄である悟ったジェイドは呆れつつも見守る・・・・・・見て見ぬふりをすることにしたようである。
アクゼリュスはもう目の前だった。
人払いをするとヴァンたちが何をしようとしているのか単刀直入に聞いてきたので、ティアはどこまで話そうかと数秒思案した。
「詳しいことは故郷の機密に関わることですので、たとえモース様であっても申し上げることはできません」
ユリアシティは教団創設以来の機密事項。しかしそれでおとなしく引き下がるようなモースではない。理由を言わなければおまえを処分する、と。しかし処分なんて言葉で怯むティアでははかった。
「兄が、ヴァン・グランツがやろうとしていることはユリアの願いに反すること。ユリアの意志実現に必要だというのであれば、実の兄と刺し違える覚悟はありました。しかしあの場で事を起こしナタリア様とルーク様を巻き込んでしまったことは配慮がたりなかったと言わざるをえません。どのような咎めも受ける所存です」
ティアの言葉に嘘は一つもない。いや、ナタリアとルークを巻き込んだことは計画の内だったので、そこは少し真実と異なる。それでも彼女の凛とした態度はモースにそれが虚偽ではないと思わせるには十分だった。
「おまえは何者だ」
「私はユリアの意志を継ぐ者です」
ユリアの望みは預言遵守にあらず、預言を覆し世界を存続させることにある。
それがかつての旅でティアが出した結論だった。
ユリアの望みが預言遵守にあると疑わない、預言の行き着く先が世界の滅亡であると知らないモースがティアの真意に気付くことは不可能だろう。
ティアが預言遵守派であるとモースが誤解するように仕向けるための言葉選びは完璧だった。
「そうかそうか。おまえの兄のことは残念だったが、おまえとは上手くやっていけそうだな」
下品な高笑いを発しながら、モースはティアの肩をバシバシ叩く。
(このセクハラオヤジ! 汚い手で触らないでくれないかしら)
内心の殺意を笑顔で隠し、ティアは恭しく頭を下げて客間を後にした。
翌日、ルークたちは再び謁見の間に呼び出された。
インゴベルトはマルクト皇帝からの和平の申し出を受け入れること、その証しとしてアクゼリュスの救助を申し出た。
「アクゼリュスは数年前に廃鉱にしました。あの街は現在無人のはずですが・・・・・・」
そうきましたか、とジェイドは爆笑したいのを堪えて神妙な顔を作ってみせた。
「マルクト側の街道が使えない故、使者殿が知らぬのも無理なきこと」
最盛期より量は減ったとはいえアクゼリュスから出土した鉱物は未だ市場に出回っているのがその証拠である、と。
キムラスカ側からでなければアクゼリュスに行くことはできないということは、現在アクゼリュスにいる人間はキムラスカ側の街道を使って不法侵入した人間、つまりキムラスカ人である可能性が高いのではないだろうか。
そう考える者も少なくはなかっただろう。
マルクトのためと称して自国の民を救う、か。しかしその民は他国に密入国し盗掘を行う者。果たして救う価値のある人間だろうか。
ナタリアが敢えて沈黙を守っていたため、王に意見できる者はこの場にはいなかった。
「ルーク、行ってくれるな」
親善大使に任命されたのがルーク・フォン・ファブレだったことに秘預言を知らぬ者たちは王の真意に疑念を抱く。
アクゼリュスは人体に影響を及ぼす程濃い障気が観測された街。そのような場所に第三王位継承者に行っていただくわけにはいかない、とジェイドは恐縮しきった態度で辞退する。
「だからこそだ。ワシがマルクトとの和平を本気で望んでいることの証明となろう」
一体何を本気で望んでいるのやら。
インゴベルトはどうあってもルーク・フォン・ファブレをアクゼリュスに行かせたがっているのだと、その場にいる者たちに多少なりとも印象付けることができたのではないだろうか。
そろそろいいでしょう、とジェイドはそっとルークに目配せする。
「そのお役目、承りました」
「よく決心してくれたルークよ。実は、な。この役目、おまえでなければならないわけがあるのだ」
いつか聞いた台詞である。
かつてのように第六譜石の欠片を詠んでみろと言われるのかしら、とティアは身構える。欠けていて詠めなかった文章はティアの頭の中にきっちり入っていた。今ならあの欠片があそこで終わっていた理由もわかるというものである。いっそのことオールドラント滅亡まできっちり詠み上げてみようかしら。オールドラントの滅亡を知り慌てふためく彼らの姿を想像し、ティアはこっそりと笑みを浮かべた。
ティアの表情の変化に気付いたのは彼女の正面にいたナタリアだけだった。
(何か楽しそうなことを思いついたみたいですわね)
ナタリアはティアが何をしようとしているのか想像してみる。かつての記憶を頼りに今後の展開を思い浮かべてみればティアの思いつきは容易に推察できた。
(それはとても楽しそうな企みですけど、今はまだその時期ではないのではないかしら? でもティアが譜石を詠み始めたら止める術はないような気もしますし・・・・・・)
ここは自分が止めるべきだろうと、ナタリアは声を上げた。
「お父様! やはりわたくしも使者として一緒に・・・・・・」
身体は王の方を向いていたが、ナタリアの意識はティアに向けられていた。
(あぁそんなに残念がらないでくださいませ。わたくしも残念でならないのですから)
ナタリアの横顔にティアは誰にも気付かれないようにつめていた息を吐いた。
(ナタリアに感謝しなくちゃね)
ティアもそれをしては計画に支障をきたすことは理解できていた。それでも譜石を渡されたら秘預言すべてをぶちまけてみたいという誘惑に勝てなかったことだろう。
「それはならぬと申したはずだ」
有無を言わさぬ王としての言葉と態度に怯むようなナタリアではなかった。
「どうしてですか? 理由をお聞かせください」
「王命だ。ならぬものはならぬ」
どんな素敵なこじ付けを披露してくれるのか楽しみにしていただけに、拍子抜けである。
「それで、同行者は私と、あとは誰になりましょう」
ナタリアの暴走は聞いていて楽しいものがあったが、これ以上は計画の妨げになるのではないかと思ったジェイドが軌道を修正する。
(今はまだ我々が知っていることは秘密にしておく必要があることをお忘れですか)
眼鏡の奥の赤い譜眼が冷たく光る。ナタリアはやりすぎたかしら、と内心で舌を出したが、そこに反省の二文字はなかった。
「ローレライ教団としては、ティア・グランツを同行させたいと存じます」
モースがティアを同行者に推薦したのは、預言の監視者である彼女はどんな手段を用いてもアクゼリュスとルークを消滅させるだろうと信じているからだった。
「モース。僕も同行しようと思います」
和平の成立を見届けるために同席したイオンのこの発言に、導師を失うわけにはいかないモースは猛反対した。
「もう決めたことです。和平の成立を見届けるのが仲介役を引き受けた僕の役目ですから」
それが実状と異なっていたとしても、教団で一番偉いのは導師であるイオンだった。その決定を人目の多いこの場で覆すことはたとえモースであってもできることではなかった。
こうしてアクゼリュス救援のための使者にはルークを親善大使、同行者にジェイド・イオン・アニス・ティア・ガイの五人が選ばれた。もちろん実際に救援を行うのは兵士や医師である。そちらは白光騎士団を中心に特別部隊が編成されることになった。その編成のために一日時間をとり、出立は明日ということになる。第三位とはいえ王位継承者を旗頭にした救援隊にしてはあまりに早すぎる展開だった。
モースは怒っていた。
レプリカは人形。そこに意志などあっては困る。ただ言われるままに導師を演じ、預言(スコア)を詠めばよいだけである。
それがモースの求めたレプリカイオンだった。
しかし実際のレプリカイオンは意志を持ち勝手に行動してしまう。その行動はローレライ教団の導師として非の打ちどころがないものであるから、モースは導師の行動を阻止することができなかった。
マルクトの求めに応じてダアトを勝手に離れたこともそうだったし、今回のアクゼリュス同行の件もそうである。
謁見の間で己の意志を示したイオン。モースに導師の意志を覆す権限はない。
モースは導師がアクゼリュスに行けば確実に命を落とすと思っていた。しかし彼には導師を失えない理由がある。今回はかつて導師のスペアとして手元に残しておいたフローリアンがいないのだ。二人目、三人目のレプリカイオンが存在することはモースのあずかり知らぬことだった。
どんな手段を用いてもアクゼリュス行きを阻止するつもりのモースは、アニスを呼び出した。
「それは~どういうことですか~?」
誰が聞いているとも知れない場所で「イオンを監禁せよ」とは言えなかったのだろう。モースの説明は要領を得ない。
「え~と、とにかく、イオン様には今夜は教会に泊まっていただくようお願いすればいいんですね」
導師の宿泊先がファブレ家では監禁のしようがない。王城もしかり、である。かといって街の宿屋に導師を泊めるわけにもいかないので、ローレライ教団の教会が選ばれたのだ。
モースの思惑を察することは今のアニスにはそう難しいことではなかった。
教会の一室にでもイオンを閉じ込めて親善大使一行に加われないようにするつもりなのだろう。
出発時間になってもイオンが姿を現さないことを尋ねられたら、体調を崩して同行は難しいとでも言っておけばいい。導師の体が弱いことを知る者は多いので真実を知らない者にしてみれば疑う理由はないだろう。しかし仲間たちは別だ。イオンが同行することは計画の内であり、それを取りやめる理由は今のところない。
しかしまだモースのスパイのふりをしていなければならないアニスは考える。
(え~と、イオン様にはとりあえずモースの命令通り監禁されてもらって、その後は前回と同じようにあの三人組に攫ってもらえばいいよね)
翌朝、モースにイオンの居所を尋ねられたアニスはキョトンとして首を傾げた。
「イオン様は昨夜モース様の指示で場所を移されたのではないのですか?」
イオンのいる部屋の前で警備についていたアニスに、イオンを移動させると言って連れ出した男たちはモースの部下だと名乗った、と。
実際にはそんな人間は存在しない。
扉を開けたのはアニスだったし、イオンは自分の足で教会を出て、迎えに来た漆黒の翼と共に夜の闇へと消えていったのである。
しかしモースはアニスの思惑通り勘違いしてくれたようだった。
誰の耳があるともわからない状況だったのであいまいな表現を選んだのは自分だ。アニスに伝わった己の意思が「導師を監禁する」というところのみで場所に教会を選んだことまでは伝わらなかったのだろう。そこを誰かにつけ込まれた。
「ヴァンの仕業か・・・・・・」
「どうしてヴァン総・・・、ヴァン・グランツが」
指名手配犯に総長はまずいかなぁ~と思い、アニスは言い直す。
脱走兵として指名手配されたヴァン・リグレット・ラルゴの三人。しかしそこに彼らの犯した罪は明記されていないのだから仕方がない、とモースは思う。
「導師守護役(フォンマスターガーディアン)であるおまえには話しておいた方がいいだろう」
タルタロス襲撃の黒幕はヴァン。モースは六神将に導師探索を命じはしたが力尽くで取り返せなどとは言ってない。導師を取り戻した後彼らが導師をどうするつもりだったのか、想像するだに恐ろしい。そんな者であるとも知らずに彼らに大儀を与えてしまった自分に非がないとは言わないが、自分も騙されていたのだ。
白々しいモースの言い訳は、アニスの耳を通り過ぎるだけである。
自分に言い訳したって意味ないのに、とアニスは思う。
あぁ違うのか? 大詠師モースと導師守護役の少女が揉めていれば、こっそり様子を窺う者が現れるのが当然だ。柱の陰やら扉の隙間で聞き耳を立てている教団関係者へ向けてのアピールのためだろう。どこまでも保身に走るモースに、ダアトの未来に暗雲が立ち込めているのが見えるような気がするアニスだった。
そこへ出発時間が迫っているのに姿を現さないイオンとアニスを心配したティアが現れた。
モースは再びそれが真実であるかのように自信たっぷりに自説を語る。
「それは確かなことなのでしょうか?」
「証拠はない。しかし他にこんなことをする者がいるとは考えられん」
「そうですか」
俯いたティアの口許に笑みが浮かんでいることに気付けるのはアニスだけだ。
モースの出した結論はこちらの予想した通りだった。ならばこの先もまたしかりであろう。
今のモースに信託の盾(オラクル)騎士団に命を下すことは難しかった。それが導師探索という命令であれば尚のことだ。一度煮え湯を飲まされた兵たちはモースの命令の真偽を他の詠師たちに確かめるだろう。今度の導師失踪は真実だったので、いずれは神託の盾兵を動かすことができるかもしれないが、今はのんびりとダアトの総意が得られるのを待っている暇はなかった。今すぐ動かせる手駒はティアとアニスの二人といったところだろうか。もちろんそれはモースがそう思っているというだけのことであったが。
モースはティアとアニスにヴァンの手から導師を取り戻すよう命令する。しかしティアがアクゼリュス救援のための使節に加わることはモースが言い出したこと。今更取り消すわけにはいかないのではないか。
モースもまた預言によって自分の行動を決めてきた人間だった。それはすなわち思考能力の低下を意味する。欠如しているキムラスカ国王よりは多少マシかもしれなかったが、ティアたちに言わせれば五十歩百歩と言うものだろう。己の代わりに道を示してくれる言葉があれば―――それが預言に沿っていると思わせる必要はあるが―――嬉々として従うだろうと想像することは容易かった。
ティアはアニスも当初の予定通り親善大使であるルーク・フォン・ファブレに同行したらどうかと進言する。イオンが行方不明になったことで必然的にアニスの同行も自然消滅していたことであったが、公式に同行を辞退したわけではない。一行に加わることは可能だろう。
和平の成立を阻止するために行動しているヴァンは、きっとルーク・フォン・ファブレのアクゼリュス行きを邪魔するために現れるはずだ。それがヴァン自身であるか彼の部下であるかはわからないが捕らえて導師の居場所を聞き出せばよい、と。
ティアがヴァンの目的が「和平成立の阻止」であると言ったのはアニスや他の信者の耳があるからだった。モースの耳には和平が預言と聞こえていただろう。
ティアは預言の監視者であり、自分と志を同じくする者だと信じ込んでいるモースはこの提案をあっさり承諾した。
二人に親善大使に同行し、道中必ず接触してくるであろうヴァン、もしくは彼の部下を捕らえ、導師の居場所を聞き出した後、導師を無事奪還することを命じる。
この極秘任務に従事するのが少女兵二人のみというのは無理がありすぎる。しかしモースは自分の命令に無理があると気付けるほど現場を知ってはいなかった。
そして少女たちの方にはこの命令には無理があると訴える必要はなかった。
少女たちは知っているのだ。この命令が発せられることになった原因。導師を攫ったのはヴァンであるという仮定がそもそも間違いであるということを。
導師が行方不明であること。そして元信託の盾騎士団主席総長によって誘拐されたことを隠したいと思ったモースは、現在教会内にいてこのやり取りに聞き耳を立てていた者たちには緘口を命じ、ダアトには導師はアクゼリュス救援のための使節に加わったので帰国が遅れていると伝え、親善大使一行に対しては体調が悪くて同行できなくなったということにしたのだ。三者が直接接触することさえなければ、導師誘拐の真相が明るみに出ることはないはずである。
ティアとアニスの二人は揃って「承りました」と頭を下げた。磨き抜かれた大理石の床に映った少女たちの口許がしてやったりとばかりに笑みを形作っていることに、モースが気付くことはなかった。
「でも、ティア。よかったの?」
ルークたちの元へ向かいながらアニスは窺うような視線をティアに投げかける。
「何が?」
「だってイオン様の誘拐までお兄さんの仕業ってことになっちゃったんだよ」
タルタロス襲撃時のリグレットとラルゴはヴァンの意を汲んでいたのだから、ヴァンが導師誘拐を企んでいるという部分に嘘はない。しかし今回の導師失踪に関しては完全な濡れ衣である。
「いいのよ。兄さんがやろうとしてうることに比べたら軽いものだわ」
ヴァンが本当にやろうとしていることの罪でヴァンが裁かれることはない。何故ならそれは罪が発覚する前に自分たちが阻止するからである。だからと言ってヴァンがやろうとしていたことがなかったことになるわけではない。そこにかつての恨みが混在していないとは言わないけれど。犯していない罪の刑まで科せられていることを知ればヴァンは己がそれをやろうとしていたことを棚に上げ憤慨するだろうか。
「ん~まぁ、ティアがいいならいいんだけど」
ここにいたのがルークだったらティアを止めたかもしれない。しかしここにはアニスしかいなかった。それがヴァンにとっての不運だったのだろう。しかしジェイドはいなかったので最悪の一歩手前で留まっている。ヴァンの運命は現在そんな状況にあった。