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自分たちの行く先に苦しんでいる民がいる。それが敵国の人間であったとしても、民を救うのは王族たる己の役目。ルークがいない今、彼の代わりが務まるのは己だけ。ナタリアは自らルークの代役を買ってでた。攫われたルークのことは心配であったけれど、それよりもマルクトの民を救うこと優先させた。
王の甥よりも王の娘。所詮名だけの親善大使ならば、より高位であった方がよいに決まっている。キムラスカがマルクトのために王女を遣わした、というのは何とも魅力的であるように思えた。その名代の交代劇が王命に逆らったものだったことや、キムラスカ国王より預かった本物の親善大使を見す見す攫われてしまったことが後々問題になるとはジェイドは欠片も思っていなかった。
元々命令されたから仕方なしに同行していたのだ、守るべき主を攫われたガイは本来ならルークを探しに行くべきだろうとわかっていた。あるいはキムラスカに引き返し事の顛末を報告するべきか。しかし王女は時間が惜しいと言う。ガイは王女命令を連発するナタリアを冷めた目で見つめていた。
導師はあの親善大使と一緒にいるだろう。攫ったのは六神将だ。自分ひとりで何ができるだろう。だからと言ってバチカルに戻るわけにはいかなかった。このことをモースに知られれば自分も両親も処罰されるだろう。彼らはこのままアクゼリュスへ向かうと言う。今は彼らと一緒に行動する方が得策であるような気がした。少なくとも己一人で砂漠を越えることはできそうにはなかったから。
薄紫に煙る鉱山の街。
ルークを乗せた列車は終着駅を目前に停止していた。
親善大使を欠いた一行がどういう理屈でこの地に既に到着しているのかはわからない。それでもナタリアを新たな名代としたと想像するのは容易かった。
マルクト軍人がアクゼリュスの救済を至上の命としているのであればそれでもいいだろう。
それが間違いだとは思わないけれど、攫われた親善大使やローレライ教団の導師を探すことよりもアクゼリュスの住民の方が大事であると、世間に向けて言っているようなものだと気付いているのか、いないのか。そういう扱いをされたキムラスカとダアトがどういう感想を抱くのか思い当たらないあたり、外交官としては失格だ。この男は皇帝の片腕と言われていても所詮一軍人に過ぎないということだろう。
街の入り口に立ったルークを見て、彼ら、そして彼女らは「何処に行っていたの?」と詰め寄ってきた。
何処にも何も、ルークが攫われる所を見ていたではないか。
「イオン様はどうしたの?」
これまたお門違いな質問をする導師守護役(フォンマスターガーディアン)の少女に、ルークは「さぁ」と首を傾げた。
「あんた、馬鹿? イオン様がどれだけ大事な人かわかってないの?」
その大事な人を探そうともせずにこの地を目指した自分は何だというのだろうか?
反論するのも馬鹿らしい。
ルークは守護役の少女から目を逸らして街を見渡し、お粗末過ぎる救援隊の姿を怪訝に思った。
彼らはこの状態を不思議には思わないのだろうか?
「なぁ、師匠はどこにいるんだ? 先に来ているはずだろ」
それはヴァンの行方だけを尋ねる質問ではなかったのだけれど、その妹はそうは受け取らなかったようである。
呆れた、とルークに侮蔑の視線を向ける。今は目の前で苦しんでいる人を助けることの方を優先すべきである、と。
「貴方、兄がいなければ何もできないのね」
ルークがいつヴァンを頼りにしたというのだろうか?
師と呼んでいるからか、それともガイやナタリアから何か聞いたからだろうか。
確かに屋敷に軟禁されていたころのルークはヴァンの訪れだけを心待ちにするような子供だった。しかしそれは剣術の稽古が、強くなるために師という人物が必要だったからに過ぎないのだが、そんなルークの心情を知らないガイやナタリアが誤解してもしかたがないだろう。
それを一々訂正するのも面倒だった。
もう直ぐ列車は終着駅に着く。
誤解されたままであったとしてもルークには何の支障もなかった。
坑道の入り口に立つ二つの人影に気付いたのはルークだけだった。
緑の髪の少年が一瞬だけこちらを見て、それから坑道の中に姿を消した。
大事な大事な導師イオン。
これだけ近くにいてその存在に気付かない導師守護役(フォンマスターガーディアン)。
目の前で苦しんでいる人を放っておくことができない、とそう言うのであれば、守護役なんて辞めればいいのだ。
先に着いているはずの救援隊の姿が見えないことを不思議に思わない、勝手に親善大使の名代となった王女と和平の使者であるマルクト軍人。この街の住人すべてを救うためにこの地に来たのではないのだろうか。一人二人を救って自己満足に浸りたいのであれば、国の代表などという肩書きは捨てるべきである。
ルークの護衛として親善大使一行に同行したはずの使用人は、守るべき主人が合流した後も彼の傍から離れたままだ。与えられた職務を理解していない時点で公爵家から首を言い渡されても仕方がないだろう。
彼らは救助に夢中でルークが坑道に入って行ったことに気付かない。
もっとも気付いていても救助活動に従事しないルークのことなどお構いなしだったかもしれないけれど。
「坑道の中にまだ人がいるかもしれない」と住人の一人に言われるまで、彼らは坑道があることにさえ気付いていなかった。
約束の地―――アクゼリュス。
街の中を徘徊する邪魔者の姿に眺めながら、アッシュとルークは目と目を合わせるだけで役割分担を決めた。
ルークは彼らの目を坑道の入り口から逸らすために一足先にタルタロスを降り、アッシュは導師を坑道の奥まで連れてくる役目を無理やりもぎ取った。
ダアト式封咒で閉ざされた扉の前で待ち構えていたヴァンは、連れてこられた導師の姿に満足気な笑みを浮かべ、しかし次いで現れたアッシュの姿に眉を顰めた。
「どういうことだ。アッシュ! 私はおまえにこんな命令を下した覚えはない」
そんなヴァンの態度をアッシュはフッと鼻で笑った。
「導師を連れて来いと命じた覚えならあるんじゃねぇのか」
何もかも自分の思い通りになると思い込んでいる男は、自分が乗る列車もまた引かれたレールの上を走っているだけだということに、最期の瞬間まで気付くことはないだろう。
ヴァンは戻るよう命じるが、それに従うようなアッシュではない。
この場に用があるのは何もヴァンだけではないのだ。
緊迫した空気を打ち破る新たな足音が聞こえてきたのは、アッシュが退かないと悟ったヴァンが実力行使に出ようとした時だった。
「師匠! それに導師も・・・・・・。こんなところにいたのかよ」
遅れて到着したルークの姿を認めると勝者の笑みを浮かべる。忌々しげにアッシュを見ていた時とは大違いだった。
ヴァンの中でどんな葛藤があったのかはしらない。あるいはどんなレールを引きなおしたのか。
いくら引きなおしても終点が変わることはないとも知らず、机上の空論を練り直す男が滑稽でならなかった。
アッシュはルークを見、ルークはアッシュを見る。
言葉は要らない。
約束は常にお互いの心の内にある。
後は場が調うのを待つばかりだった。
「導師イオン。この扉を開けていただけますか?」
それもまたレールの上の行動であるとも知らず、ヴァンは導師に懇願する口調で命令を下す。
扉の形をした光が一つ、また一つと消えていく様子を眺めながら、アッシュとルークは歓喜に震える心と身体を平静に保つことに必死になっていた。
聳(そび)え立つ大樹のような、巨大な音叉とそれを囲む光の輪。
「すげぇ~」
思わずルークの口から漏れた感嘆の言葉に、アッシュはクッと笑って「そうだな」と呟いた。
荘厳なる場。
なるほど、約束を果たすにはこれほど相応しい場所はないだろう。
「ふう」と同じタイミングで息を吐いて、まるで合わせ鏡であるかのようにまったく同じ仕草で顔を見合わせる。
さぁ、始めよう。
言葉はもう、必要なかった。
アッシュの口許に不敵な笑みが浮かぶ。ルークの瞳が嬉しそうに細められる。
互いの利き手が剣の柄に伸び、鞘から引き抜かれた白刃が記憶粒子(セルパーティクル)の光を反射させてキラキラと輝く。
心音がまるでカウントダウンをするかのように、時を刻んでいた。
間違える理由はない。
振り下ろされた剣を己の剣で受け止めたのか、あるいは振り上げた剣が受け止められたのか、それさえもわからないほど同じ軌跡を描く剣先。
いつしか音は消え、心音と剣と剣がぶつかり合う音だけがその場を支配していた。
威力も、スピードも、繰り出されるタイミングもまったく同じ。
決着はもしかしたら永遠に付かないのではないか、と。
心配になるよりも、この時間が永久(とわ)に続けばいいという気持ちの方が強かった。
時には拳で、あるいは脚で、その攻防はけっして剣をただ振り回すだけのような単調なものではなかったが、すべての攻撃がその纏(まと)う音素の種類や量に至るまでまったく同じだった。
「く、くく」
「はは、あはははは」
先に攻撃の手を止めたのはどちらだったのか。
地面を鞘にして剣から手を離した二人は、同時に笑い声を上げた。
このまま決着が着かないというのであればそれもまた一興である。
笑いの発作が治まるまで、ルークは、そしてアッシュも、互いの顔から目を逸らすことはなかった。
息が整ったら、それが再開の合図だ。
相手の呼吸を感じているのか、それとも自分の呼吸を確認しているのか、それはどちらでも同じことだ。
相手の利き手がゆっくりと剣に伸びるのを見ながら、自分も同じ仕草で剣に触れているのだと確信する。
さぁ、第二ラウンドの始まりだ。
アッシュの手が剣を持ち上げる。しかしルークの手は剣の柄に触れた状態で止まったままだった。
「―――愚かなレプリカルーク」
突然割り込んできた第三者の声。
永遠に続くはずの均衡が打ち破られた瞬間だった。
本人の意志を無視して動く手足。驚愕に見開かれた翡翠。
ルークの異変を感じて、アッシュは自分たちの戦いに水を差した人物を探すために周囲を見渡した。
傍観者は七人。
呆然とした表情で言葉もなく立ち尽くす六人はこの際無視してもかまわないだろう。
放っておくわけにいかないのはたった一人―――ヴァン・グランツ。この期に及んでも、レールは自分が引き直したと思い込んでいる男である。
「ここでおまえを失うわけにはいかぬ。おとなしくしているのだ、アッシュ!」
この男がルークに対して何かやったことは明らかだった。
不自然に集まる第七音素。
それは大気中からだけではなく、アッシュの身の内からもルークに向かって流れているかのようだった。
ヴァンを斬ることよりも、今起ころうとしている―――ルークが起こそうとしていることを止める方が先決であると、アッシュは判断した。
己の意識を探るように、ルークの意識を探る。
最初の時はあれほど簡単に繋がった心が遠い。
幾重にも張り巡らされた言葉の檻がアッシュの侵入を阻む。
「ヴァンの野郎」
これを仕掛けたのが誰であるかなんてことは明らかで、アッシュは怒りに任せて譜術を放った。
直撃はしなかったが、譜術を避けた拍子にヴァンの手がルークの肩から外れる。
―――捕らえた。
同時にアッシュの心とルークの心が繋がる。
「ルーク!」
確かな手応えを感じ、アッシュは思いの丈を込めてその名を呼んだ。
眉をしかめ、うずくまる。
集められた第七音素が、制御していたルークの意識が途切れるのを待っていたかのように、弾けた。
その光は直ぐ傍にいたヴァンはもちろん、ルークに駆け寄ろうとしていたアッシュをも坑道の壁に叩きつける。
凄まじい威力だった。
痛む背中に手を添えて、アッシュが身体を起こす。
ヴァンは意識を失ったようだった。
これで邪魔者はいなくなった。
さあ、仕切り直しだ。
利き手ではない方の手で押さえているのは背中ではなくて額であったけれど、自分と同じタイミングで身を起こしたルークを見ながら、アッシュは今度こそ約束が果たされることを確信していた。
永遠に続くはずだった均衡は、ヴァンの不要な干渉によってあっけなく崩れた。
初めそこに差異はなかった。
振り下ろされる剣のスピードも、受け止める剣の強さもまったく同じだ。
時折、蹲るヴァンや呆然と二人の様子を見つめることしかできない導師たちの姿が視界に入ることもあったが、戦いの邪魔をしないのであれば態々排斥する手間をかけることもないだろうと放っておいた。
「俺と戦っている最中に余所見とは、随分と余裕じゃねぇか」
襲い来るアッシュの剣を受け止めながら、ルークは心外だと眉を顰める。
「おまえしか見えてねぇって」
その答えにアッシュが満足そうに笑った。
足元の地面を抉った譜術を、ルークは大きく後ろに飛び退いて避ける。
土煙が上がり、二人の間を隔つ。
煙越しに見える紅。
土煙ごときで目標を見失うはずがない。
渾身の力を込めて剣を振り下ろす。
もちろんアッシュの方にもルークがどこから仕掛けてくるかを見誤る理由はなかった。
受け流して、返す刀でルークの剥き出しの腹を狙う、はずだった。
左へと弾かれたルークは、振り向くと同時に片膝を付くアッシュの姿を確認して、驚愕に目を見開いた。しかし躊躇っている余裕はない。今度はアッシュの胸を突くため剣を逆手に持ち替える。
避けられなかったのか、それとも避けなかったのか。
すーっと、白刃がアッシュの胸に吸い込まれていく。
一方、アッシュの剣がルークの腹に届くことはなかった。
「よくやった。それでこそ俺のレプリカだ」
うっとりと呟く。
剣がより深く胸を貫くことになることも厭わずに、アッシュはルークの身体を抱きしめる。
隙間なくぴったりと重なる身体。これが同じであるということなのだろうか。
溢れる赤がルークの身体を染め上げていく。
「アッシュ」
ルークの声にアッシュの閉ざされていた瞼がわずかに震えた。
頬をなぞった手が力なく身体の横に垂れ下がり、そうして、その瞼は二度と持ち上がることはなかった。
ルークは根本まで突き刺さった剣の柄から手を離し、アッシュの背中を強く掻き抱く。その度に傷口からは真っ赤な血が溢れた。
「俺は約束、守ったんだからな。おまえも、守れよな」
―――あぁ。
その声は、耳ではなく、心に響いた。
ルークは満足そうに笑って、そして目を閉じた。
―――起きろ。
目覚めを望んでくれている。
何故? 自分は約束通り殺されたのではなかったのか?
―――約束はもう一つあったはずだ。
あぁ、そうだな。
ルークは重たい瞼を持ち上げて、「ほう」と息を吐いた。
この天井に見覚えがあると感じるのは気のせいだろうか?
「無事なようだな?」
「ヴァン、師匠(せんせい)・・・」
気だるい身体はここで自分の身に何かがあった証拠。
しかし、その何かがわからない。
身を起こし、あたりを見回す。
何に使われるのかわからない譜業装置だらけの部屋。その中央で硬い台に座っている自分。
己を見下ろす空色の瞳。
この色は違う、と本能が告げる。
「まさか、おまえがこの場所にいるとはな」
この声は違う、と記憶が告げる。
何かに導かれるようにルークは立ち上がり、歩み始めたが、その足は数歩も進まぬうちに、己に伸ばされたいくつもの手によって阻まれることになる。
己の無事を喜ぶ声を遠くに聞きながら、ルークは身の内に直接呼びかけてくる声にのみ耳を傾けていた。
ルーク捜索のためにマルクトの地を彷徨っていたガイは、タルタロスから脱出したジェイドとティアが、リグレットから導師イオンを取り戻そうとする場面に遭遇した。
ティアの姿に見覚えのあったガイは、彼女からルークの行方に関する情報を得るため、イオン奪還に協力。ルークが六神将の一人―――鮮血のアッシュに連れ去られたことを知る。
リグレットがアッシュの単独行動に文句を言っていたらしいから、彼女にルークの居場所を問うたところで行方を知ることはできないだろう。
ガイはタルタロス内の捜索を諦め、バチカルに向かうというジェイドたちに同行を申し入れた。
護衛は一人でも多い方がいいと、ジェイドはそれを承諾。
共にカイツールの国境まで来た時点で新たな問題が発覚する。
誰も旅券を持っていなかったのだ。
そこに現れたのが別ルートでルークを探していたヴァンである。
ガイは鮮血のアッシュがルークを連れ去ったことをヴァンに伝える。
コーラル城―――ヴァンが何故そこにルークがいると思ったのかはわからないが、ヴァンの確信は当たっていた。
ルークはそこにいた。迎えにきたガイたちを見て、嫌そうに眉を顰める。
ガイはルークが嫌悪する者の中に己も含まれているとは微塵も考えてはいなかった。
一癖も二癖もある部下の中でも、ひときわ異彩を放つ男。
格好が奇抜であれば、言動も奇抜。
その男が己の命令に従わないことは常であったが、今回も命令を無視して何やらしていたのだろう。
締まりのない顔で浮遊椅子を走らせている所に遭遇できたのは行幸だった。
少し鎌を掛ければあっさりとルークの居場所を白状した。
アッシュがコーラル城に連れてきたという。
「おかげでよいデータが取れました」
ホクホク顔で走り去る男の背を見送りながら、ヴァンは何のためにアッシュがルークをコーラル城に連れて行ったのか、それだけが気になっていた。
何かが狂い初めているような気がする。
光の都―――バチカル。
天を目指すかのように作られた街。
己を出迎えた金色の姫は「お帰りなさい」と言う前に、「約束を思い出してくださいましたか?」と、お決まりの台詞を口にする。
彼女にとってそれは、朝に「おはようございます」と言うのと同じぐらい習慣付いたもの。だからルークも「おはよう」と返すのと同じように、同じ台詞を返した。
「俺は約束を忘れたことなんてないよ」
「約束約束」と繰り返す彼女に、自分が殺すべき相手だと思った。自分を殺してくれる人だと思った。
身に纏う色は違ったけれど。
ルークにとって「約束」と言えばそれだけだったから。
足りない力で彼女を殺そうとした。そうすれば彼女が自分を殺してくれると思った。
けれど、彼女はそうはしなかった。
ただ、哀しそうな顔で首を振った。
「何もかも忘れてしまったのですね。かわいそうなルーク。でも、いつかきっと思い出せますわ」
貴女がかわいそうだと思っているのは誰?
ルークは己をかわいそうだと思ったことはなかった。
約束を忘れたことなどなかった。
ただそれが彼女の求める約束ではなかったというだけのことだった。
鉱山の街―――アクゼリュス。
その地を詠んだ預言(スコア)を朗々と詠み上げる女の声。
レールはそこに向かっているらしい。
終点で待っているモノを知らないとは、なんと幸せなことだろうか。
行き先を変えることも、降りることも叶わぬ列車。
死に向かう車両に騙されて乗せられた供人たち。そして自分から進んで乗り込んできた金色の姫と導師守護役(フォンマスターガーディアン)の少女。
彼ら、そして彼女らはこれが死出の旅路であるとは知らず、先を急げとルークの背中を押す。
「何で親善大使の俺がこんな犯罪者みたいな真似をしなきゃならねぇんだよ」
廃工場を抜けてバチカルを出ると聞かされたルークは、盛大に文句を言った。
それに対して呆れたような、あるいは嫌悪感を隠そうともしない目を向ける同行者たちは、ルークの言った言葉の本当の意味に気付いていないようである。
キムラスカとマルクトの和平が成立したことを世間に知らしめるための親善大使一行ではなかったのだろうか? こんな風にコソコソしていて証の役目は果たせないだろう。マルクトはそれでいいのだろうか。もっともキムラスカの真意はその先にあるようだったが。
気付いているモノは約束にしか興味のないルークのみ。
彼らを乗せた列車は着実に定められたレールの上を進んでいた。
饐(す)えた溝の臭いと、古くなった油の臭い。
もっとも悪臭などとは無縁の生活を過ごしていたルークにとって、それに「嫌な臭い」ということ以上の認識はない。
油と埃に塗(まみ)れた廃工場。
道中の魔物を無表情に切り捨てて、黙々と出口を目指す。
バチカルの外は雨が降っていた。
分厚い雲が陽光を遮っていたが、廃工場の暗さに慣れた目には眩しいぐらいである。
遠くに陸艦が見えた。
「イオン様」
導師守護役(フォンマスターガーディアン)の少女が、ルークの直ぐ後ろで何か叫んでいる。
緑の髪の少年―――行方不明の導師である―――だとか、彼を連れて行こうとする六神将の姿だとか、確かに見えているはずなのに、ルークの目には映っていなかった。
求める赤がある。
それだけがすべてだ。
それ以外に必要なものなど何もない。
気付いた時にはルークはその赤に向かって走り出していた。
走りながら、剣の柄に手を掛ける。
背後からの攻撃を、赤は最初からそこに来るとわかっていたかのように、振り向くと同時に受け止めた。
弾き返すのではなく、力比べのような押し合いになったのは、お互いがそれをのぞんでいるからか。
鍔が触れる程近くで剣を交え、視線は同じ色の翡翠から逸らされることはない。
この赤をこんなにじっくり見るのは初めてだった。一瞬だったり、涙で滲んだ視界だったりで、強烈過ぎる赤の印象だけで何も残っていなかったから、ここまで同じだとは思わなかった。
ギシギシと重なる剣が嫌な音を立てる。
永遠に続くかのような均衡を破ったのは、導師の肩に手を掛けた六神将と、ルークの背後に迫った親善大使一行の声だった。
「何やってんの。行くよ」
イラつきを隠そうともしない少年兵の声。
「ルークが、二人・・・」
金色の姫が驚愕に震える声で呟く。
「邪魔すんじゃねぇ!」
ルークは叫んでいた。
やっと約束を果たすことができるのだ。
それは赤も同じだったのだろう。
―――仕方がない。場所を変えるぞ。
突然頭に響いた声。そして頭痛。立っていることも困難な痛みに、ルークは剣を取り落とし蹲る。その背に添えられた暖かな手。それは雨に濡れた冷たい身体には熱いぐらいだった。
「ルーク!」
悲壮なガイの声を聞きながら、ルークの意識はゆっくりと闇に沈んでいった。
濡れた髪を拭う手はどこまでも優しい。
しかしその口を吐いて出る悪態の数々は、聞く者を怯えさせかねない迫力があった。
「ディストの野郎・・・」
確かに多少レプリカの方に負担が掛かるかもしれないとは聞いていた。多少ならば、と了承したのはアッシュだ。その際レプリカの意見を確かめなかったことについては、目覚めないこいつが悪い、と眼を瞑ったのも事実だ。しかし気絶するほどの負担だとは聞いていなかった。
「次に会う時を覚えているんだな」
ディストにとって幸いなことに彼らの未来に交わる点は用意されていなかった。もっともそれはこの時点のアッシュが知ることではない。
髪が粗方乾くころにはレプリカの顔から苦痛の色は消えていたので、アッシュは「ほう」と安堵の息を吐いた。
朱色の睫毛が振るえ、翡翠の瞳が焦点を結ぶ。
そこに歓喜の色を見つけ、アッシュは確信した。
「俺がわかるか」
「知らねぇよ。初対面、だろ」
厳密に言えば三回目、いや四回目ということになるのだが、しかし過去のそれはどれも意識がはっきりしていなかったり、一瞬だったりしたのだから、レプリカが初対面と認識しても不思議ではない。
望む答えが返されなかったことにアッシュが眉を顰めると、レプリカはフッと不敵に笑った。
伸ばされた手がアッシュの頬に触れるか触れないかの位置で止まる。
「でも、一つだけわかることがあるんだ。おまえは俺が殺すべき相手だ。で、俺を殺すのはおまえだ。―――あってんだろ?」
「あぁ、正解だ。―――俺を担ぎやがったな」
してやったりと笑うレプリカに、しかし訪れる感情は悔しさよりも満足する気持ちの方が強い。だからといって負けっぱなしでいるようなアッシュではなかった。
「褒美をやらねぇとな」
覆いかぶさるように、まずは額に一つ。
あんぐりと口を開けて呆けるレプリカに、今度はアッシュがしてやったりとばかりに口角を上げた。
真っ赤になって、それでも気丈に睨みつけてくる翡翠。
アッシュは自然とこみ上げてくる笑いを抑え、抑揚のない声で問う。ここで感情を見せるのは何だか負けのような気がするのだ。
「なんだ、不満か?」
レプリカはニンマリと笑った。顔色はまだ真っ赤なままだったが、そこに先程までの焦った様子はない。
「あぁ、不満だね。どうせなら、こっちにくれよな。ご褒美、なんだろ」
人差し指で自分の唇を指差す。
今度はアッシュが絶句する番だった。だがそれも一瞬だ。
「上等じゃねぇか」
レプリカの顔の両脇に肘を付いて、アッシュはゆっくりとその身を倒していった。
持ち上げては、掌から零れ落ちる感触を楽しみ、また掬い上げる。
「飽きないのかよ」
枕に顔を押し付けたまま、ルークはさっきから同じ動作を繰り返す半身を見上げた。
素肌をすべる己の髪の感触がくすぐったかったのだが、彼の顔を見ていると「やめろ」と制止することもできず、したいようにさせていた。それでもいい加減、髪だけじゃなくて自分を構えと思わなくもない。もっともルークにはそれを言葉にできるような素直さはなかった。
彼はそれには答えず、今度はその一連の流れに更なる動作を加える。朱色から金色に変わる毛先を手から滑り落ちる前に掴んで、己の唇へと持っていったのだ。その間視線はルークの顔から逸らされることはない。
「なっ・・・・・・」
ルークは頬に熱が集まるのを感じた。
その光景を直視していられなくて寝返りを打つ。冷たい枕の感触が火照った頬に気持ちが良かった。
忍びきれない笑いが背後で響く。
彼は相変わらず同じ動作を繰り返しているのだろう。時折緩く髪を引っ張られる感触が何よりも雄弁にそれを物語っていた。
枕を通して伝わる陸艦の駆動音が眠気を誘う。
「寝ていていいぞ」
「俺が寝ている間、ずっとそうしているつもりかよ」
その質問に彼が答えを返したかどうか、ルークには記憶がなかった。
ただいつになく幸せな気持ちで眠りについたことだけを覚えている。
もう直ぐ約束を果たすことができる。
それが何よりもルークに安眠をもたらすのだった
行こう。約束の地(アクゼリュス)へ。
二つに分かれたレールを一つに戻す場所はそここそが相応しい。
≪注意事項≫
相も変わらず、読む方を選ぶ内容となっております。
以下の警告をよく読んだ上、ご覧になるかどうかご判断ください。
・アッシュとルークが敵同士(?)のお話。
・敵同士だけどアシュルク(+か×かは読まれた方の判断に委ねさせていただきます)。
・お互いに本気で殺し合っている。でも、相手が自分以外の誰かに傷付けられるのは我慢ならない。そんな赤毛二人。
・国を思うアッシュや、世界のために命を捧げるルークがお好きな方はご覧にならないことをオススメします。
・仲間に厳しめというか、仲間は空気。
・あとHAPPY END好きさんも止めておいた方がよいかもしれません。
・死にネタです。「預言遵守ルート」とも言います。
・流血注意!
・救いはまったくありません。
以上、大丈夫そうな方のmoreよりご覧ください。
【それで世界が滅ぶとしても~約束、あるいはそれを定めと呼ぶ~】
何もかも、どうでもよかった。
この国に生まれ、この国のために生き、そして死ぬこと。
予め定められた未来。
預言と呼ばれる死の国に向かうレールの上を走れと言われた。無視していたら強固な檻付きの列車に乗せられた。この列車にブレーキは付いていないらしい。脱線でもしない限り止りそうにないから、アッシュ―――その当時は別の名前で呼ばれていた子供は、列車の中で不貞寝を決め込んでいた。
止まるはずのない列車が止まったのはアッシュが十歳の時である。
脱線でもしない限り止りそうにない列車は、一人の男の手によって脱線させられたのだ。
男はアッシュを別のレールの上を走る列車に乗せた。
その列車もまた死の国に向かっていることにアッシュが気付くのは、列車が走り出して直ぐのことである。
この列車には前の列車と違うことが一つだけあった。
アッシュを閉じ込めて置くための檻がついていなかったのである。
それは檻を準備する暇がなかったからか、それともアッシュが逃げ出すことはないと高を括っているからか。
だが列車を降りたところで何になる。
すべてのレールは死の国に向かっている。
この星を乗せた列車が向かっている先もまた、然り。
ゴロリと横になって、車窓を流れる景色に目を向ける。
そこに見慣れぬ朱があった。
水槽の中で朱が揺れる。
これはアッシュが降りた―――降ろされた列車に乗せるためのレプリカであると男は言った。
なるほど、あの国は脱線した列車を再びレールに戻すつもりか。その時そこにアッシュが乗っていないというのは拙いのだろう。すでにアッシュを別の列車に乗せてしまった男がどうするつもりかと思ったが、最初から身代わりを用意していたらしい。
しかしあの男は何やら勘違いしているようだ。
アッシュはけっして前の列車に未練があるわけではない。もちろん今の列車を気に入っているわけでもなかったが。
戻る場所はないのだと、そうわからせるためにこれの存在をアッシュに明かしたかっただけなのだろうけれど。
「これからはこれが『ルーク』だ。おまえは、そうだな。燃えカス―――アッシュというのはどうだ」
自分の思いつきが余程ツボだったのか、男は高らかに笑った。笑いながらアッシュを残し部屋を出て行った。
扉の閉まる音を背後に聞きながら、翡翠の双眸は目の前の朱から逸らされることはない。
指先が培養槽のガラスに触れる。思った以上に硬く、冷たい感触。
アッシュは培養槽で漂うレプリカをガラス越しにそっと撫で上げた。
「生き残れ。そして俺を殺しに来い」
目覚めないはずのレプリカがうっすらと目を開ける。
そこにはあったのは想像していた通りの翡翠だった。
自分の姿を認めニッコリと微笑んだレプリカにアッシュは満足そうに笑った。
「おまえは俺が殺してやろう」
それがアッシュとレプリカのたった一つの約束だった。
何かにとりつかれたように剣を振る。
剣術の稽古は好きだ。
強くなって殺さなければならない人がいる。
それが誰のことかわからなかったけれど、会えばわかるはずだとルークは確信していた。
ルークには十歳までの記憶がなかった。
誘拐され戻ってきた時には赤子のようになっていたのだと、その当時を知る者は言う。
覚えていたのは目の覚めるような鮮やかな赤と、一つの約束。それから『ルーク』という名前。
花の赤も、夕陽の赤も、己が纏う赤も、どの赤を見ても違うと感じる。一番近いと感じた赤は己の流した血の色だったが、それも似ているだけで求めている色とは違った。
求める色はこの世のどこにもないのではないかと、挫けそうになる度にルークは剣を振るった。
約束を果たすために強くならなくてはいけない。
いつか出会う赤のために、ルークは剣を振るい続けた。
ルークの日常が急変したのは、ND2018・レムデーカン・レム・二十三の日のことである。
屋敷に侵入してきた神託の盾(オラクル)兵の制服を身に着けた女―――後にルークの剣の師としてファブレ家に出入りしていた神託の盾主席総長ヴァン・グランツの妹と判明する―――ティア・グランツと擬似超振動を起こし、白い花畑に飛ばされたのである。
初めて見る外の世界。
壁の向こうに広がっていたのは無限だった。
ここになら求める赤があるかもしれない。
ルークはこの偶然に感謝した。
家に送ると言う女を従えて、渓谷を下る。
道々襲ってきた魔物を一刀の下に切り捨てて、流れる赤に口角を上げた。
綺麗な赤。
だけど求める色とは違う。
似ていることは慰めになったが、それにルークが満足することはなかった。
不法入国を理由に連行されマルクト軍保有の陸艦タルタロスの一室。
この状況で「協力」とは笑わせてくれる。
和平への協力を願い出たマルクト軍人とローレライ教団の導師の言葉に、ルークは失笑を禁じえなかった。
「いいだろう。協力してやるよ」
突然笑い出したルークに、「不謹慎だわ」と喚く女にも、言われるままに膝を付く軍人にも、嬉しそうに礼を言う導師にも。
興味なんてものは最初からなかった。
己を殺すのは目の前の軍人でも、聖職者でもない。
だったらそれはいないも同然ではないか。
ルークの中にあるものは目の覚めるような鮮やかな赤と、約束。ただそれだけだったから。
約束を果たすまでは死ぬわけにはいかない。
だから彼らの申し出を受け入れた。
受け入れた先にある和平が偽りだろうとなかろうと、己が生きていればそれでよかった。
艦内に響く警報と、緊迫した声。
乱れる足音を遠くに聞きながら、ルークは艦橋(ブリッジ)を目指して走っていた。
甲板に出ると、さっきまでまとわりついていた咽返るような血の臭いがしなくなった。
ルークは「ふう」と大きく息を吐く。
自分が思っている以上に緊張していたのだろうか。
「貴方はそこで見張りをしていてください」
ルークが抗議の声を上げるよりも早く、ジェイドはティアを伴って艦橋の中に消えた。
二人の軍人が消えた扉を背にして、天を仰ぐ。
青い空を背景に赤い髪が風に舞っていた。
「見つけた」
それは求めていた赤い色。
その色は本当に存在していたのだと、嬉しさに身の内が震える。
ルークは自分に向かって降り注ぐ氷の刃を避けることもせず、その赤に見惚れていた。
間抜け面をして固まっていやがる。
アッシュは数年ぶりに見る朱に、口角を上げた。
まさかこんな所で再会するとは思わなかった。
その朱がどんな風に成長しているのか確かめたくて、氷の刃を見舞う。
服が、腕が裂け、朱色が散った。
避けることもせずに自分だけを見つめる翡翠。
そこに怯えはない。
なるほど、身体が竦んで動けないわけではないようだ。
ククッと、喉を鳴らす。
眼前に飛び降りて、左腕で抱きしめる。右手は朱の剥き出しの腹に沈んだ。
「うっ」と小さく呻いて、全体重を己に預けてくる身体を抱きしめながら、アッシュは狂ったように笑い続けた。
重なる心音。
頬に触れる頬の滑らかさ。
掻き抱いた背中で指に絡まる朱色の髪。
何もかもが心地よかった。
艦橋の扉が開き、人影が二つ飛び出してきた。
「彼を放しなさい」
小さな舌打ちを一つして、アッシュはルークを抱えたまま襲い来る槍を避ける。
自分とレプリカを引き離そうとする存在に、アッシュは怒りも顕に譜術を放った。
その譜術に一人は気を失ったようだったが、もう一人は無傷でそこに立っていた。
まずい、と死霊使い(ネクロマンサー)がつぶやく。
「今の騒ぎで譜歌の効果が切れたようですね」
神託の盾(オラクル)兵が数人走ってきて、彼らを取り囲んだ。
次の指示を仰ぐように自分を見る部下に、アッシュは「殺せ」と短く命じると、ルークを抱えたまま艦内に足を向ける。
「アッシュ! 閣下のご命令を忘れたか?」
その背を女の鋭い声が追いかけてくる。六神将の一人、魔弾のリグレットだ。
二つの相反する命に固まる神託の盾兵たち。
誰かの指示がなければ行動できない部下。
ヴァンの言葉に従うことしかできない女。
どちらもうんざりだ。
「好きにしろ」
アッシュは振り返らなかった。
彼らを捉えるように命じるリグレットの声を背中に聞きながら、艦内にその姿を消した。
人気のない船室の硬いベッド。
無邪気に眠るレプリカの首にそっと手を掛ける。
このまま力を込めれば、コレの命の火を消すことができる。
親指にちょっとだけ力を入れると、ルークは苦しげに眉根を寄せて、身を捩った。その拍子にアッシュの手が外れた。「げほっ」と小さく咽返って、朱色の睫毛に縁取られた瞼が震える。
「俺を殺すのか?」
「そういう約束だ」
焦点の定まらない翡翠の瞳。
うっすらと水気を含んだ宝石が室内を照らす音素灯の光を受けてキラキラと輝く。
「ゴメン。俺はまだおまえを殺せない。殺せる程強くなってない」
何がそんなに哀しいのだろうか。
静かに涙を溢れさせる翡翠に、そっと唇を寄せる。
その拍子に首筋に添えられた手に力が入ってしまったのは、アッシュの意識するところではなかった。
翡翠は既に瞼の下だ。
それを物足りないと思いながら、アッシュは身を起こした。
大きく上下する胸を見てほっとしている自分を自覚して、「ちっ」と小さく舌打ちをする。
眦に溢れた涙を指で掬い、頬、首筋、肩と掌で辿る。
握り締めた同じ形をした掌。
己と同じ場所にある剣胼胝(けんだこ)を指でなぞって、アッシュは満足そうに笑った。
「努力は認めてやるよ。まだまだなようだがな」
その手に唇を寄せて、剣胼胝を食(は)む。
味などしないはずのそれが、酷く甘いような気がした。
アッシュは己のレプリカを抱えたまま懐かしい場所に来ていた。
レプリカが生まれた場所。
自分とレプリカのレールが交わった場所である。
点滅を繰り返す譜業の光。
あの日とよく似た情景。
目覚めぬレプリカを連れてタルタロスを降りた。
ヴァンの命令を全うすることしか頭にないリグレットの目を盗むのは、それほど難しいことではなかった。
あれからレプリカは眠ったままだった。
見たいと思った翡翠が見られぬことに不満が募る。
だから、この場に連れてきた。
不本意ではあったが、ディストも呼びつけた。
自称薔薇のディスト。他称は死神だったり、洟垂れだったりするが、この男がレプリカを創った張本人であることに間違いはない。
「心配はいりませんよ。眠っているだけです。目覚めないのは本人が起きたくないと思っているからでしょう」
何を思って目覚めを拒否するのか?
アッシュは沸々と湧き上がる怒りを抑えきれず、怒鳴っていた。
「無駄です。聞こえてはいませんよ」
どうにかしろと詰め寄ると、ディストは同調フォンスロットを開くことを提案してきた。
聞こえないのであれば、直接脳に話しかければよい、と。
被験者(オリジナル)とレプリカ―――完全同位体の間でしかできないことらしいが、理屈に興味はなかった。
大事なことは、できるか、できないか、だ。
望む答えを返すディストに、アッシュは満足そうに笑った。
むしろ何処か満足気な微笑みさえ浮かべている。
そう感じるのは気のせいだろうか。
「教官。兄は幸せだったと思います」
少女の兄は兄妹の故郷、白い花が咲き乱れる場所に埋葬された。
「幸せ、だと?」
あの方は志半ばで死んでしまった。それのどこが幸せだというのか。さぞや未練であったであろう。
かつて咳き込むあの方の背をさすっていたのと同じように、少女は白い墓石を撫ぜる。その手はどこまでも優しかった。
「これで兄は預言から解放されたのです」
少女は笑っていた。
あの方の理想をこの少女は知っていたのか。
「妹は何も知らない」とあの方は言っていなかっただろうか?
真実を告げるには、同志にするにはまだ幼すぎる、と。
あの方は預言とそれに縛られた人類の消滅を望まれていた。
預言のない世界の創造。それがあの方の悲願だった。
「ティア?」
これは誰だ?
本当にあの方の妹なのか?
己の教え子なのか?
「ずるいとは思いませんか?」
少女の手が己に向けてすうっと伸ばされる。
その手に握られているのは、何だ?
「ティア?」
己の声は少女に届いているだろうか?
突きつけられた白刃に、動くことができなかった。
「兄は一人で逝ってしまいました。あなたを置いて」
だから、追いかけてはいかがですか?
少女の言葉を最後まで聞くことはできなかった。
赤い。
白い花が赤く染まる。
これが解放されるということなのだろうか。
死(解放)はすべてのモノに平等に訪れる幸福。
なるほど。あの方は幸せだったのかもしれないな。
掌に載せられたそれを握り締める。
己の血で赤く染まった白刃。
それはかつて自分が少女に贈った物だった。
その目を忘れることはできない。
人間ではない恐ろしい何かを見ているような瞳。
かつての自分もあの人のことをこんな目で見たのでしょうか?
もし仮に謝ることができたとしても、きっと何事もなかったように許してしまう人であったと知っているから、謝ることもできません。
あの人が好きだと言った白い花が、赤く染まる。
ここだったことを少しだけ後悔した。しかしここでなければいけなかったのだから仕方がない。
「教官。見ていてください」
血に染まった白刃はかつての持ち主に返すことにした。
自分には必要のないものだから。
新たな墓石が兄の墓石の横に建つころには、赤く染まった花も本来の色を取り戻していることだろう。
あの人が好きだと言った白い花は、あの人の心と同じように、どんなに血に濡れたとしてもその白さを失うことはなかった。
教団にリグレットの死が伝えられたのは、ヴァン・グランツが彼の故郷に埋葬された翌日のことだった。
兄の死を伝えると、朱は翡翠に水滴を溜めた。
それはあまり見たくはない顔だ。
それからこれからは兄の代わりに自分が来ることを伝えると、朱は嬉しそうに笑ってくれた。
あなたを悲しませたりはしないから。
一人にしたりはしないから。
最後まで共に行きましょう。
兄の死後、主席総長の椅子は空席のままだった。
相応しい人材がいなかったのだ。
兄の死は預言にはない出来事であったから、それは仕方のないことなのだろう。
この世界は預言にない出来事に対応できるようにはできていなかった。
あと一人。
そう。
兄に同調する神将はあと一人だけだ。
科学者の目的は初めから兄とは異なっていた。彼は研究がしたかっただけだ。兄が死に、研究を続けることができなくなっては、ここに留まる道理がないだろう。
導師に成れなかった少年はまだ誕生していない。誕生させるつもりもなかった。
魔物に育てられた少女は彼女の導師と共にいた。導師が死んだ後彼女はどうするだろうか? きっとダアトに留まることはないだろう。彼女の恩人はもういないのだから、利用されることもないだろう。
だから、後はあの男だけだ。
あの男をどうするべきか。
彼が彼女の実の父であるということは、躊躇う理由にはならなかった。
ただ、あの男に何かができるとも思わなかったけれど。
金色の姫があの男の娘であると、光の都に教えてあげようかしら?
あの男もそうすればよかったのだ。
娘を奪われた男は、力及ばず取り戻すことが叶わなかった。死を覚悟した男は、義母の取り成しにより命を長らえた。バチカルを追放された男に残されたのは、復讐だけだった。
あの男が兄に語った預言を憎む理由。
その様があまり滑稽で、ティアは笑いを堪えるのが大変だったことを思い出す。
残されたのは復讐だけだなんて。
笑ってしまう。
本当にそれだけだったのかしら。
預言に逆らうと決めた男が、何故国の決定には従ったのだろうか?
追放されたからと言って、バチカルに入る方法は本当になかったのかしら。
そうは思えなかった。
あの頃のティアでさえファブレ公爵家に忍び込むことができたのだ。
王城よりは警備が手薄だったから可能だっただけのことだ。
そうね。そうかもしれないわね。
でもそんなことが言い訳になるのかしら。
貴方の娘はあの人とは違うわ。城の奥に閉じこもってなどいなかった。閉じ込められてなどいなかった。
城でなければいけない理由も、バチカルでなければいけない理由もないのでしょう。
貴方が城にこだわるのであればそれでもいいわ。城に入り込む手段はあったはずだわ。現にバダックには閉ざされていた城門も、ラルゴの前にはその門扉を開いたではないか。
預言を、それに従う人間を憎む前に、娘を取り戻す努力をするべきだったのだ。兄の理想に共感する前に己の手でできることをすべきだったのだ。
王と王妃は、キムラスカ国民は、預言に詠まれた存在だからと、王家の血を引かぬ王女の存在を受け入れるでしょうか?
実の娘として過ごした年月により王に受け入れられ、民のために為した業績により国民に受け入れられた王女。
それは十八年という歳月がもたらした結果だ。
ならば産まれた直後だったらどうだろう。同じ結果が待っているだろうか? ティアは己には試す術はなかったことが残念でならなかった。自分はどうして彼女より年下なのだろうか、と。
今ならそれも可能だ。
ラルゴ、いやバダックに父だと名乗らせてみようか。
彼女は既に血に負けぬ絆を得ることはできているかしら。血に負けぬ業績を残しているかしら。
ティアがそれをしなかったのは彼女のためではなかった。
かつて共に戦った仲間に対する思いは、年月と共に薄れ、今では懐かしさの欠片さえなかったから。
朱に、己と紅との約束を思い出せと強要する王女。
それがどれ程あの朱を傷付けているか彼女は気付かない。
あの人も朱と同じように傷付いていたのだろうかと思うと、彼女を許す気にはなれなかった。
己に彼女を糾弾する資格はない。
だからやらなかったのだろうか。
それとも。
朱が住む場所を混乱させたくはなかったから。
今はまだ、このままに。
それも預言に記されていたことなのでしょうか?
いつものように中庭で朱の相手をする。
かつて導師が行方不明という知らせを兄がファブレ邸にもたらした日。
それは自分とあの人の旅が始まった日だった。
ND2018。レムガーデン・レム・二十三の日。
その日を忘れたことなどなかった。
今、この世界に導師はいない。
あの優しい緑も、すべてを呪って消えた緑も、無垢な緑も、この世界では生まれなかったからだ。
だからその日もいつもと変わらない日であるはずだった。
そうだと思っていた。
いつもと同じはずの木刀が、何故か第七音素を帯びてティアに振り下ろされる。受け止めたロッドもまた然り。
これは純然たる事故です。
えぇ。今回は本当に。
かつてのような馬鹿な台詞を言ったりはしないわ。
「ごめんなさい」と言うと「ティアのせいじゃないだろ」と朱は言った。
渓谷に咲き乱れる白いセレニアの花。
その中心で佇む朱。
その姿に、あの日を思い出す。
戻ってきた赤は朱色をしていなかった。
あちらに残してきた『彼』には悪いと思うけれど、やはり自分はこの色を望んでいたのです。
思わずこぼした涙に、朱が心配そうにティアの顔を覗き込んだ。
あぁ違うの。何でもないの。
「行きましょう」
ロッドを構えて朱の前を行く。
これが始まりの合図だった。
あるいは終わりの合図であると言うべきだろうか。
辻馬車には乗らなかった。
徒歩でケセドニアに向かう。
ダアトにいる紅に、ケセドニアから鳩を飛ばした。
バチカルでどのような罰が待っていようとも、受け入れるつもりだった。
大丈夫。
たとえこの身が滅んでも、この思いは費えることはない。
愚かな、愚か過ぎる兄。
その行動は思慮深いようでいて浅はか、計算されつくされているようでいて行き当たりばったり。
あの頃の自分はそれ以上に愚かであったと、思い出すたびに死にたくなるような後悔が押し寄せてくる。
あぁ、今ここにあの頃の自分がいるのならば、秘奥義の一つもお見舞いするのだけれど。
ここにいるのはかつての愚かだった自分を知るティアだ。今度は間違えないようにと努力するティアだ。
ねぇ兄さん。どうかしら? 貴方よりうまくやっていると思うでしょ。
エンゲーブはどうなったかしら。
あの小さな聖獣のことは心配であったけれど。
かの地に住む優しい人々。
卵が孵るのが先か、焔がこの地を焼き尽くすのが先か。
どちらであってもたいして違いはないでしょうから。
だって世界はもう直ぐ終焉を迎えるのだから。
終焉を知らずに終わりを迎えるのは、幸せなことでしょうか? それとも不幸せなことでしょうか?
あの優しい緑はここにはいないから。
この世界では生まれなかった人に思いを馳せる。
今のダアトに導師の力を持つモノはいない。
導師の力を求める大詠士は「まさか預言の遵守を何よりも望む方が、預言にない存在を欲するような真似はなさいませんでしょう」と言って黙らせた。
研究者たちは兄の死と同時に処分した。
兄にとっては新たな世界の要となるモノであったとしても、新しいモノを求めないティアにとっては無用の長物である。
不利益をもたらすことはあっても益はない。
ティアは朱を欲しただけ。
それさえ済めばもう必要のないモノだった。
要らないモノは捨てる。
そうだったわよね。兄さん。
その人に対する思い入れは殆んどなかった。
かつての仲間の幼馴染、その程度の認識でしかない。
だから彼がその後どうなったかなどティアには興味がなかった。
行く道の妨げになるのであれば処分するだけ。そうじゃなければ放っておけばいい。
あらゆるモノが終わりを迎えようとしている今、一人を追いかける必要などないのだから。
ジェイド・カーティス、大佐。
この結果をもたらしたのは貴方だということを、貴方が知る日は来るでしょうか?
彼は研究がしたかったのではない。恩師を取り戻したかったのではない。貴方を取り戻したかっただけなのだと、知っていましたか?
マルクト帝国の軍人が和平の要に何を担ぎ出したのかは知らない。
守るモノのいない導師守護役(フォンマスターガーディアン)が今どうしているのかは知らない。
確かめようとも思わないが、彼らが焔と出会うことを預言が求めているのならば、何処かに出会いは用意されているでしょう。
求めることはしない。避けることもしない。
ただあるがままに受け入れること。
それがティアの選んだ道だった。
バチカルに戻ってきた翌日、アクゼリュス行きを命じられた。
もうすぐ、すべてが終わる。
アクゼリュスへは海路で。
なるほど六神将の妨害がなければこうなることは必然で、予定が早まることは問題ないのだけれど。
紅はうまくやっているかしら?
先に約束の場所に向かっているだろう紅を思う。
「俺も行くからな」
もちろん連れて行くつもりだったけれど、紅の方から言い出すとは思ってもいなかった。
「どうして?」
「すべてが燃え尽きる瞬間を、共に見届けたいだけだ」
紅が誰と一緒に最期を迎えたいのか、それを尋ねることはしなかった。
自分か、朱か、思い出の中の少女か。
自分は。
そうね、兄さん。貴方と共にありたかったわ。
貴方がどんな顔で終焉を見届けるのか、それが見たかった。
貴方のための紅茶を淹れたことに後悔はないけれど。
あぁ、本当に残念でならないわ。
セフィロトに施された二つの封咒は、兄が死んで直ぐに解いた。
被験者(オリジナル)イオンと自分の中に流れるユリアの血がそれを可能にしたのだ。
オールドラント最後の導師は、自分の運命とそれを教えた預言を恨み死んでいった。
今なら次代の導師が預言に詠まれなかった理由も理解できるというものである。滅び行く世界はもう導師を必要としていなかったのだ。
自分が死んだ後の世界の存続を許さなかった少年は、ティアに協力的だった。
残念ながらすべてのセフィロトを回ることは叶わなかったけれど。
ティアはヴァンとは違った。
セントビナーだけだなんて、そんな生温いことはしないわ。
どうせならすべて同時に。
それをやるに充分な仕掛け施すことができたとティアは自負していた。
兄にできてティアにできぬ道理はない。
あとは約束の地から最後の命令を下すのみである。
これが証であるならば、この身を蝕む障気さえも今は、心地よくてならなかった。
「遅かったな」
坑道の奥にその青年はいた。
吹き上げるセルパーティクルになびく紅い髪が焔のようで、聖なる焔の光とはよく称したものだとティアは己の目的も忘れしばし見惚れていた。
それは共にこの場にたどり着いた朱にも言えることだったようで、初めて見るパッセージリングに圧倒され、セフィロトツリーを背に神代のごとく立つ紅に言葉を無くす。
「待たせてしまったかしら」
紅の目にティアは映っていなかった。翡翠はその後ろで所在なさげに佇む朱にのみ注がれている。
「おまえが・・・・・・」
「誰?」
「なるほど。よく似ているな」
「そうね。でも同じではないわ」
並べてみればその違いは明らかで、記憶の中に残るあの人とも『彼』とも違う。
募る思いは、愛しさと、ほんのちょっとの哀しさ。
愛しさは二人に、哀しさは絆に入り込むことのできない自身に。
一歩だけ、でもその一歩が遙か遠い。
紅と朱が同じ動作で振り返る。
「「ティア」」
伸ばされた手は二つ。
「ありがとう」とティアは心の中で呟いた。
その手を掴んでもいいのですか?
その資格がありますか?
紅は朱を憎まなかった。
朱は紅を恐れなかった。
かつてそうであったのは、そうなるように兄が仕組んでいたからなのだと確信する。
あの人を苦しめたすべての元凶だったモノ。
あんなに簡単に終わらせるべきではなかったのかしら?
でもそれはここではない人の咎。
犯していない罪の償いを強要することはティアにはできなかった。
その身に相応しい罰を。
人は、世界は滅びるべきだとは思いませんか?
ねぇユリア(ご先祖様)。貴方もそう思っていたのでしょ。
だから貴方は残される者たちに預言を与えたのではないのですか?
「さあ、始めましょう」
天に向かい燃え盛る二つの焔の色は、赤。
アルバート式封咒はアルバート流剣術最後の弟子によって解咒された。パッセージリングごと消滅させるという方法であったが、解いたことにかわりはない。
後はこの身に流れる血が叶えてくれる。
ティアは最後の封咒を解いた。
―――メシュティアリカ。焔の守護者たらむ者よ。
―――其は何を望む。
第七音素の意志(ローレライ)の声に答えるモノはなかった。
崩壊していく大地の隙間から光はあふれ、やがてそれは空へと還っていった。
焔は照らす光ではなくて、燃やし尽くす熱であったと知るモノは、もう・・・・・・いない。
Fin
≪注意≫必ずお読みください。
このネタの主人公は黒ティアです。黒いというよりは壊れています。逆行もしています。
ゲーム本編のネタバレがあるのはもちろん。ファンダムの「遺言~メシュティアリカ~」の内容はあまり反映されていませんが、キャラクターエピソード バイブルのネタバレはあります。
ユリアとかローレライとか秘預言(クローズドスコア)とか、色々捏造解釈しています。
そしてたぶんこれはバッドエンドというヤツだと思います。
誰がどのような扱いを受けているかは保障しかねます。
預言遵守ルートなので、死にネタです。生き残る人がいないと言った方が正しいでしょう。
上記のことをご了承いただけた方のみmoreよりご覧ください。
【それで世界が終わるとしても~メシュティアリカ・アウラ・フェンデ~】
風に吹かれて白い花が空を舞う。
あの日『彼』がこの地に降り立って以来、ここを訪れるモノはいなくなった。
あの人のことなんて最初から存在しなかったかのように、世界は『彼』を受け入れた。
それと同時に人々の口からあの人のことが語られることは少なくなり、そう遠くない未来には忘れられてしまうのだろう。
それがあの人の望んだことだと『彼』は言った。
別にそれでもいいと思った。
あの人を思い出にしたかったわけではなかったから、あの人を思い出(過去)にしてしまった世界から思い出(あの人)が消えてしまうとしても、それでいいと思った。
たとえ世界から、大多数の人々の記憶からあの人の存在が消えてしまったとしても、あの人を本当に知る人々にとっては忘れられることではないから。
かわいそうだと誰かが言った。
誰がかわいそうなのだろうか。
その人が本当にかわいそうだと思っているのは、あの人ではなくてそれを言った自分自身ではないだろうか?
気付いていないのならわざわざ教える必要なんてないから、それを指摘したりはしなかったけれど。
カサリと草を踏みしめる小さな音がやけに大きく響いた。
自分以外が奏でる音を聞くのは随分と久しぶりなような気がする。
「行くのか?」
「ええ」
「そうか」
「何かしら」
「いや、うらやましかっただけだ」
「珍しく素直ね」
「一緒に」そう言うことはできなかった。
それを一番望んでいるのは『彼』であり、それができないことを一番知っているのも『彼』だったから。
「あいつから受け取ったモノは重すぎて、俺の片羽の翼ではもう飛ぶことはできない。地上に縛り付けられた憐れなこの身であっても、あいつが残したモノだと思えば、捨てることも傷つけることもできないからな」
うらやましいのはこちらの方だ。
あの人が残したモノに確かなモノなど自分には何もなかった。ただ思い出のみ。それが薄れていくことに気付いたのはいつだったか。けっして消えないと思っていたのに。
あの人の笑顔が思い出せない。
思い出せるのは泣き笑いのようなそれ。
それさえ都合のよい夢ではないと誰が断じることができるというのか。
―――我を呼ぶのは其か?
―――ユリアの子孫よ。其は我に何を望む。
「ティアよ。もしくはメシュティアリカ。ユリアの子孫と言うのは私の名前ではないわ」
それでも、この身に流れる血が自分の望みを叶えるというのなら、今まで血など何の意味もないと思っていたけど、それに感謝してもいいわ。
光が収束し、霧散する。
後には何も残らなかった。
「行ったか」
それがこの世界からユリアの血が消えた瞬間だった。
帰ってきたのだ。
今はまだ自分が知るのと同じ過去。
しかしここから先は。
ティアは自然に口許が緩むのを感じていた。
赤子の身では何をできるはずもなく、今はただ同じ道を歩むのみ。
それでも。
兄さん、貴方の狂気はこのころから始まっていたのね。
気付けなかった過去の自分。
今は違う。
知っているのだから。
必ず止めてみせるわ。
いいえ。違うわね。
己の狂気は兄をも凌ぐ、と。
わかっているわ。
それでも―――たとえそれで世界が滅ぶとしても。
もう、それでも構わなかった。
始まりは、五歳の誕生日を迎えた時だった。
義祖父と兄、それぞれから祝いの言葉とぬいぐるみを貰った。
それはずっとこの部屋にあったモノだ。
今思えば笑ってしまうような半端な覚悟と、些細な甘言で覆されてしまうような決意を秘めて、この部屋を飛び出したあの日も、すべてを終わらせたった一つの約束を胸にこの部屋に帰ってきた日も、二度と戻らないつもりで再びこの部屋を出た日も、その黒曜石の瞳をした熊のぬいぐるみは、いつだってティアを静かに見つめていた。
薄汚れてくたびれてしまっていたが、それでもずっと大事な思い出だった。
今はまだ真新しいこの子。
兄は既に信託の盾(オラクル)の一員であったが、主席の地位はまだまだ遙か高みだった。
今ここで兄を殺せば、何もかもすべては始まる前に終わりを迎えることになるのだろうか。
正面から対峙して勝てる可能性はなかったとしても、手段がないわけではなかった。
五歳の妹に命を狙われているなんて、夢にも思わないでしょうから。
非力な人間にもそれなりのやり方があるということを今の自分は知っていた。あの時何故それを思いつけなかったのだろうか?
それを手に入れたのは偶然か、必然か。
カップに一滴。
それですべてが終わる。
ティアは久しぶりに帰省した兄のための紅茶を運びながら、ふと考える。
今ここでこれを入れてしまったら、あの人はどこに行ってしまうのですか?
機会(チャンス)はいくらでもあった。
そのすべてを見逃してきたのは、ひとえにもう一度あの人に会いたかったから。
それが自分の知るあの人ではないことを今はもう理解していたけれど、それでも姿形が同じであるなら、あの人の代わりになるでしょうか?
答えは否だとわかっている。それでも求めるのはあの朱色(あか)だけだった。
いつだって笑っていたあの人。
悲しみも痛みも不安も、そのすべてを覆い隠して笑っていたのだ。
それを偽りだとは思わないけれど。
絶対に見たことはあるはずなのに、ティアに残されたのはその泣き笑いのような顔だけだった。
満面の笑顔。
それが得られるのならもう、偽者でもよかった。
あの人の本当の笑顔を思い出す切欠ぐらいにはなるかもしれなかったから。
彼女にとってはこの世界のすべてが偽者だった。
そして世界にとっては彼女だけが紛い物だった。
兄が主席総長になったと聞いた。
もう今までのように会うことはできないだろう、と。
そのことは別にどうでもよかった。
会えないということはそれだけ兄を葬り去る機会が減るということだけれど、零でなければ可能性は無限にあった。
あぁ、でも。
グズグズしていたらあの人の偽者が創られてしまう。
ティアは自分がそれを望んでいるのかいないのかわからなくなっていた。
違うモノだけど、一番近いモノ。
姿形が同じであるならば、被験者(オリジナル)でもかまわないかしらと思って、少しだけ兄に我儘を言ったこともあった。
自分の知る道筋とは違ってしまうけれど、ユリアの預言(スコア)はきっとこの程度の差異なんてものともしないだろうから。
外の世界を見てみたい、と。
見たかったのは世界ではなくて、紅(あか)だ。
ふふふ。
確かによく似ているけれど。
それは似ているだけだった。
兄はいい意味でも悪い意味でも妹に甘かった。
預言に捕らわれたこの世界のすべてを壊すつもりでいたのにも拘らず、妹だけは残そうとしたように、その存在を特別視していた。
かつては気付けなかったことだ。
しかし今のティアは知っていた。
これは利用できるのではないかしら。
ティアは兄の隣に立つことを決めた。
ねぇ兄さん。兄さんは何をしようとしているの?
恐ろしいことは嫌よ。
兄さんがいなければ生きていけないわ。
ねぇ兄さん。預言って何かしら?
預言に従うなんて馬鹿らしいわ。
そうは思わない?
預言に詠まれていないから兄さんの傍にいてはいけないなんて、そんなのは嫌よ。
傍にいたいの。
いてもいいでしょ。
兄さんのやろうとしていること本当はよくわからない。だけど手伝わせて欲しいの。兄さんのやろうとしていることですもの。妹が手伝うのは当然だわ。
ねぇ、いいでしょ。兄さん。
兄は妹に甘かった。
そして妹は兄の扱いに長けていた。
兄のために紅茶を淹れる。
それがティアに与えられた唯一の仕事。
それがティアの望んだ唯一の仕事。
徐々に弱っていく兄を見ているのはなんとも不思議な感じがした。
ダアトで紅を見かけた。
以前ちょっとだけ見た時よりもその違いは大きくなっていた。
その表情故だろうか、それともあの人との思い出が鮮明になったからだろうか。
後者だったらいいのだけど、とティアは思う。
眉間に皺を寄せて、浮かべる笑みは嘲笑のそれ。
嘲る相手は誰なのか。自身か、レプリカか、兄か。それともこの世界の全てか。
紅がそんな表情をするようになった本源はあの男にあるというのに。
それでも紅はここにいるというのか?
居場所を奪われた、と理不尽な怒りをぶつけるのだろうか?
あの何も知らない朱色に。
奪われたのは事実。
紅が怒るのも道理。
しかし怒る相手を間違えてはいけないと、言葉が紅に届きますように。
二つの焔が互いを消し合うなんてことになっては困るから、ティアはそっと一つ目の焔に手を伸ばした。
この焔が己を焼くことなどないと、根拠などないがそれは確信。
二つに分かれた聖なる焔は、約束の時、約束の地にて、一つになって世界を焼き尽くす劫火(ごうか)となるだろう。
その焔が消えぬよう守るのが自分の役目。
ユリアの血に托された使命。
兄は間違えたのだ。
己が神になれると、そんな愚かな夢を見てしまった。
ユリアの血はユリア(人間)の血でしかないというのに。
どこまで行ってもヒトはヒト。
焔の守人にしかなれないというのに。
そっと薪をくべましょう。
焔にくべられる薪が何であるかは、ティアだけが知っていればよいことだった。
ここに紅がいるということは、バチカルに朱色の焔が灯ったということだ。
「会ってみたい」と言ったら、疑われてしまうかしら?
クスリと笑みを浮かべ、紅茶に垂らした一滴の涙。
昔手に入れたそれとは違う。
だって一瞬で終わってしまうなんて、そんなの、つまらないから。
大丈夫、と背中をさすれば嬉しそうに笑う。
そんな顔を見せられたら決心が鈍ってしまうから、やめてほしいわ。
引き出しの奥にしまいこんだもう一つの小瓶。
何もかも一瞬で終わらせてしまうそれを、使いたくなってしまうから。
ねぇ兄さん。そんな顔で笑わないでちょうだい。
もう少しだけ一緒にいたいのよ。
今日、朱(あか)に会った。
紅に比べるとこちらの方があの人に似ている。
でも、それだけだった。
似ているだけだ。
「ふふ」と笑ったら、コテンと首を傾げた。
あの人とは違うけれど、これでもいいと思った。
それからこういう考え方は、あの人にもこの朱にも失礼だと思った。
あの人と同じように生まれた命が描く軌跡を見守りたいのか、共に歩きたいのか。
「また参ります」
朱色の子供は花がほころぶように笑った。
それが泣きたくなるほど嬉しかった。
ちょっとだけあの人の笑顔を思い出せたような気がした。
掴みかけたそれはやっぱりティアの手をすり抜けていってしまったけれど。
この朱と共にいればいつか手に入るかもしれないなんて、そんな期待を抱かせるには充分だった。
兄のために淹れる紅茶は何杯目になるだろう。
日に日に痩せ衰えていく兄は、未だ気付くことはない。
それとも気付いているのに美味しそうに飲み干すのだろうか。
それももう、どちらでもよかった。
いつもより一滴多くカップに落とす。
ねぇ、兄さん。
そろそろお終いにしましょう。
兄さんの役目は終わり。
紅色はここに、朱色は光の都に。
灯った焔は二つ。
世界を照らすには眩しすぎて、闇にしか生きられないモノたちは焔を消そうと躍起になるかもしれない。
消させるわけにはいかない。
世界を燃やし尽くすには充分すぎる二つの焔。
火種をばら撒く役目を担うのうは自分。
それがユリアの血に託された唯一の使命。
せっかくの首尾を見せられないのは残念だけど、最初に燃え尽きるモノは初めから決めていたのだから、仕方がないわ。
肉体が燃え尽きてしまったら、貴方の魂はどこに行くのでしょう?
音譜帯あたりを彷徨ってはいてくれないかしら。
叶うならば、貴方がこの世界の行く末を知ることができますように。
最後の一杯は飛び切り美味しい紅茶を淹れましょう。
思いを込めて、ゆっくりと。
ただ感想を聞くことができないことだけが、心残りだった。